うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

“好きだから言えなかった”を言うために。

障害競走を愛好するようになって、より強くなったこだわりがある。
放馬落馬空馬を笑ったりネタにするひととは、私は分かり合えない。
馬や騎手や関係者を訳知り顔に否定批判したり、罵倒するひととも。
ギャンブルであり娯楽である競馬にそういう見かたがあり関わりかたがあるのもまた現実で、温度差のある相容れないひととは、棲み分けをすればいいだけのお話。

とはいえ、いつも何かに対して怒っている人間にはなりたくない。
相容れぬものにわざわざ目くじらを立てる人間にも、いつも正論しか言わない面白みのない人間にもなりたくはない。
私にだって、なぜなにどうしてと感情で言いたくなることはあるし、あーあとため息をついたり、ヘタうったなぁと笑い飛ばしたいことだってある。
と思っているのに、大好きな競馬に真面目になればなるほど、どこか狭量になっていく自分がいる。
好きなことや嬉しいことと正比例して、嫌だなと感じることや許せないと思うこともそれなりにできてくる。
そのとき、ふと心が頑なになる瞬間がある。

何かを好きになる、真剣に取り組むということは、ときに対象を神聖化・聖域化することなのかも知れない。
好きなものを信じようとするあまり、疑念が生じたときに何も言えなくなってしまったりすることがあるのだ。
対象のファンである前に競馬ファンであるというフラットな立場で語りたいのに、肯定しかできない信者になってしまったりすることが。
自分で思っている以上に、他ならぬ自分の信念に、自分の言動が縛られる場面に出くわすようになってきた。
疑念を打ち消して肯定するためにポジティブな材料探しをしたりする。
外側にいる自分たちは内側から知らされたことを受け入れ、見えることから紐解くしかないのだから、そのうえで思ったこと感じたことを忌憚なく言えばいいだけのことなのに。
それくらいの権利は与えられているとも思うのに。

たとえば今年の新潟ジャンプステークス
アップトゥデイトはなぜわざわざ夏の新潟へ行くんだろう」
「厩舎のメモリアル達成のためもあるのかな」
「だとしたら、ちょっと心配だな」
とは、どうしても言えなかった。
信じているものを信じつづけるために、それ以上の意味と意義を結果から見出したかった。
しかし杞憂は現実のものとなり、結果は伴わず、自分の想いを偽ったことに後ろめたさを覚えた。
まずは愛すべき馬と陣営に。
そして、いつも私の話を聞くとはなしに聞いてくれる、誰ともつかぬひとたちに謝りたい気持ちになった。
本音を言えば心配で不安で、私はこの遠征には心から賛同できなかったのです。
後出しでごめんなさい、と。

好きとはなんだろうか。
信じるとはどういうことだろうか。
愛ゆえに自分の気持ちをごまかしたり、口をつぐんですべてを肯定するというのはただの盲信ではないだろうか。
自分の想う対象にだって間違うことや失敗することはある。
たとえ最善、最良の選択をしたからといって、必ずしも努力や健闘が報われるわけではない。
だからこそ目が離せないのだ。
明確な正解のない世界で、勝つために、目的のために邁進する彼らを応援している。
応援とは決して、ただただ肯定しつづけることではない。
間違いや失敗そのものがいけないことなのではなく、大切なのはそうした時にどんな姿勢で見守っていくのか。
思い感じるままに受け入れること。
心を偽らないこと。
想いを吐露するときは感情的にならないこと。
自分は分かっているんだと過信しないこと。
ただの価値観の押しつけになってしまうから。
先ほど述べた“狭量な厄介さん”になってしまわないために。
自分自身の心には正直に、他者には寛大に、言動には責任を持つこと。

自分を不自由たらしめるのは自分。
強すぎるこだわりはときに自分を縛り、頑なにし、他を排する。
趣味とは、競馬とは、もっと自由で楽しいものだ。
なぜなにどうしてと喜怒哀楽を語ることもまた、ファンの楽しみであり、競馬の醍醐味のひとつなのだから。

アップトゥデイト、真価を問われた二戦目。阪神ジャンプステークス

新潟ジャンプステークスから予定外の連戦。
アップトゥデイトは大外枠から単騎逃げて自らレースを引っ張ったが、道中じりじりと差を詰めてきたニホンピロバロンに捕まり、最後の直線における叩き合いで惜しくも競り落とされた。
わずかに半馬身及ばなかった。

なぜ新潟を使ったのか。
どうしてあんなにも、何もできずに負けてしまったのか。
競馬においてはタラレバも否定批判もしないというのが信条ではあるが、内心では疑問と不安とを覚えずにはいられなかった。
コースが不得手だったからという以前の負け方だと感じたし、パドック気配からしてすでにこれまでとは様子が違っていた。
それが体調や調整等の問題だったかどうかは知る由もないが、あの不可解な敗戦があったからこそ急遽阪神ジャンプステークスを使うこととなったのだろう。
とはいえ叩き二戦目で軌道修正をかけようという陣営の判断を信じて見守るのみ。
襷を含む阪神の障害コースは決して不得手ではない。
実績もある。
むしろ前走よりもぐっと有利になるはずだ。
相手は強いけれど…

細かいことを挙げていけばきりがない。
まずスタートで一瞬つまづきを見せる。
不安こそ感じさせはしないが、全盛期に比べるとやや精細を欠いた飛越。
大きくリードをとるも早い段階で距離を縮められる。
ところどころちぐはぐとしたレース運びで、並みの馬ならばリズムを欠き著しく消耗して、最後の直線にさしかかるかというところで馬群に飲み込まれていたに違いない。
しかし、彼はやはり、障害王だったのだ。
自ら先陣を切り、途中後続に詰め寄られながらも凌ぎ、内に秘めた闘争心を剥き出しにしてニホンピロバロンに食らいつくアップトゥデイトに新たな一面を見た。
初めて見る顔だった。
勝負根性というよりも本能、執念と言い表したい。
この馬本来の競馬をさせねば、この馬にふさわしい結果を出さねばというジョッキーの矜持もあったのだろう。
鞍上の意図を汲み叱咤に応える障害王者の気迫を見せつけられたのだった。
わずかに半馬身及ばなかったのは、相手がニホンピロバロン高田潤騎手だったからだ。
彼らでなければ押し切っていたに違いない。
斤量差も味方しただろうが、あれで七分の出来だったというのだからとんでもなく強い。
文字通り、勝った人馬に敗れたのだ。
高田騎手はこのレースをもって同一重賞7年連続連対および4連覇という大記録をうち立てた。

ライバルのレース運びは終始スムーズで完璧だった。
まさにはかったように差し切られてしまったわけだが、敗因は明確なのでこの半馬身の差をつめることは充分に可能だ。
中山大障害はさらにタフな戦いとなるのだから。
敗因という意味では、“この馬はこういうときにこうして負ける”という敗戦パターンが目に見えてはっきりと分かった新潟参戦にも収穫はあったと思っている。
何より、前走との違いは一目瞭然。
良い意味でそわそわと物見をし、パドックめいっぱい外側を元気いっぱいに周回する様子を見て「ああ、今日は大丈夫」とようやく胸をなでおろせたのだった。
マイペースな天才肌というイメージをずっと抱いていたが、アップトゥデイトは我々が思っている以上に、気持ちで走る馬なのかも知れない。


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佐藤哲三元騎手の引退表明から二年。

月日の流れとはおそろしく早いものだ。
「ご本人が諦めるまでは、諦めない」
「語られるまで、進退について推し量らない」
信じて待つだけ。
心の奥底では薄々分かっていたけれど考えたくはなかったことを、
「どんな結末になっても受け入れる」
という覚悟をもって過ごしていた日々に、ついに終止符が打たれた一日だった。
夢の終わりはつらく悲しく淋しいものだった。
いつかは必ずおとずれる日が思っていたより早くきてしまったことに、ただただ涙がこみあげるばかりだった。
あれほど強く激しくひたむきに競馬を愛したジョッキーが志半ばで夢を諦めなければならない。
ダービーを勝ちたい。
有馬記念を勝ちたい。
ドバイへ行きたい。
もう一度凱旋門賞へ行きたい…
それらすべてはファンの夢でもあった。
無念としかいいようがなかった。

当人は思いのほか前向きで、競馬評論家、大山ヒルズの騎乗技術アドバイザー職を筆頭に、イベントに予想に配信活動にと寝る間もないほどで、勝負師時代には知り得なかった優しく明るい顔を見せるようになったことはもう言わずもがな。
(もちろん未練や悔しさを滲ませるシーンも時にはあり、それらを見聞きしたくて目耳を傾けていた向きもある)
ツイッターのアカウントもとり競馬ファンとの交流も楽しまれている様子。
実は私もオンオフで数回やりとりをさせていただいたことがあり、これまで競馬場で見ていたのはあくまで“騎手佐藤哲三”であり、競馬から離れた生身の“佐藤哲三さん”はこうして今も昔からも実在していたのだと実感するに至ったのだった。

これからも変わらず、ずっと応援しつづける。
同じ競馬ファンという立場で見て感じて考えて、理解しようとしていたい。
分かりうることを分かっていたい。
その想いのもと、彼の信念に添おうとしていたのが、夢を失って一年目の心境だった。
我ながら“イレ込んでいた”のだと思う。
忘れるまい、変わるまいと必死だった。
行き場のなくなった想いは執着として残った。

あるとき哲三さんはそんな私に「まだまだ。もっと勉強しなさい」とおっしゃった(※要約)。
拘泥と執着から離れて視野を広げ、客観的に物事を見るように。
もっと競馬そのものを自由に楽しむようにと諭してくださったのだろう。
憧れと敬愛の対象を神にしてはいけないし、神をあがめる崇拝者になってもいけないよと。
具体的な真意は語られなかったが私はそのように受けとっている。
いや、解釈しなおした。
思えばそれまでは彼の視点と感性を共有したいと気負うあまり、できもしないことを成し遂げようと無我夢中だった。
思いあがりといわずしてなんと云おう。
私は私自身の目で見て、耳で聴いて、心で考え感じることしかできないというのに。

始まりは憧れだった。
憧れが敬愛となり、敬愛がやがて執着となり、その執着の先には何が残るのか。
二度目の季節はそのことを考え感じるための期間だった。
ひとつの夢と青春が終わり、流れゆく月日の中で、忘れるまい変わるまいと頑なにあらがいつづけた。
途方もなくゆるやかで長い二年間だった。
憧れと敬愛、執着の果てにたどりついたのは自由と解放だった。
そして数え切れないほどの思い出が残った。
すべての始まり、あの秋華賞からじつに八年の月日が流れようとしている。
あのプロヴィナージュが仔を産んで母となり、アーネストリーエスポワールシチー種牡馬となった。
時代が変わり、世代が変わり、世界が変わり、そうして自分自身が変わる。
変化とは人生における必然だ。
執着の薄らぎは依存からの自立であり、変わることは成長と前進だとようやく気づけたのだった。

変わらない想いは今も心の中にある。
過去に抱いた想いそのものは決して変わらない。
それらを思い出として取り出してきたとき、懐かしみ回顧し、考え感じることもまた同様。
その思い出さえも幾度もの脳内補正をうけてかたちを変えてゆくものではあるが、思い出をかたち作る事実は決して変わらない。
佐藤哲三元騎手”と“佐藤哲三さん”を想うとき、私の心の根幹にあるのは今もやはり憧れと敬愛の念なのだ。
ゆえに今後のさらなるご活躍を願ってやまない。

新潟ジャンプS まさかの大敗。アップトゥデイトに見た変化

障害競走にグレード制が導入されて以降、J・G1馬の新潟重賞への参戦は史上初。
今年度の初動をまさかの敗戦で迎え、続く中山グランドジャンプを骨瘤により回避。
そんなアップトゥデイト陣営が満を持して復帰戦に選んだのが新潟ジャンプステークスだった。
あえて挑戦するからには新潟の地に積ませたい経験とつかみたい手応えがあったのだろう。連覇のかかる中山大障害へ向けて。
そう信じている。疑いはない。
平地力はあるが平坦コースが決して得意なわけではない。
障害はオール竹柵。
襷もバンケットもない。
すべてが芝。
今思えばそうだったのだ。
もちろん新潟という可能性が現実味を帯びたときから考えていないわけではなかった。
しかし次走を思い描いていた時点では、細かい条件を問うような馬ではないというゆるぎない信頼と確信があった。
盲信といっていいかも知れない。

結果は大敗。
レースは終始3番手からスムーズにすすめたタイセイドリームが押し切って大金星。
後方から終盤追い込んだアロヒラニが2着。
3着には前年度の覇者ティリアンパープルが入線。
アップトゥデイト掲示板をも外した。
中団以降から内々を追走するもエンジンがかからず、ついに見せ場もなく8着に終わった。

スタートが決まらなかった瞬間から予感はあった。
それでも、どこかで必ずと見守っていても、位置取りはいっこうに変わらない。
決してまずいわけではない。しかし跨ぐような飛越。
以前のように体全体を使って弾むような躍動感を見いだせなかった。
どうひいき目に見ても重そうに走っていたのだ。
絶頂にあった頃と見比べているからだろうか。
それもあるかも知れない。
別段まずくはないのに、どうしてこんなにも、小さくまとまってしまっているのだろう…
ただ言えることは、これは新潟うんぬんの問題ではない。 
わからないのだ。主戦の林騎手がコメントしている以上のことは。

「出負けはしたが、この馬がこんなにハミを取らないのも珍しい」
「ケガではないと思うけど、こんなに負けた原因がわからない」

障害競走はいかに自分たちのかたちで競馬できるかが勝敗を分ける鍵となる。
鞍上から出負けという言葉が出ているということは不本意に控えざるをえなかった、出していけなかった、ということだろう。 
いつにない位置取りに戸惑い、リズムを欠き、気分を損ねてしまったのだろうか。
アップトゥデイトはジョッキーの懸命なステッキにも反応せず、ようやく馬体を外へ持ち出せた最後の直線でも伸びあぐねた。

競馬が勝ち負けを競うレースである以上、勝者にも敗者にも等しく、その着順に到達した何かしらの理由がある。
しかし部外者、私のようなただ見ているだけの人間が何かに敗因を求めて羅列したところでただただ言い訳がましくなるだけだ。
負けたことを何かにこじつけて肯定はしたくはない。否定もしたくない。
だからここからはただただ主観で感じたことをいう。
誤解を恐れずにいうならば、
「彼は大人になったのかも知れない」と私は感じた。 
パドックでの様子を思い起こす。
あんなにも物見が激しく、慎重でせわしなかった彼が終始落ち着いて周回していたことを。
別馬を見ているかのようにおとなしく曳き手に従って歩いていたのだ。
まるで剥き出しの警戒心、あるいは闘争心、あるいは好奇心の一角が削れてとれたような。
尖っていたものが磨かれて丸くおさまったような。
ひとはそれを成長、成熟と呼ぶのではないだろうか。
春から不本意な流れが続いた。
思いがけない乗り替わり、敗戦、故障、長期にわたる休養。
不運と我慢の続いた月日が無邪気だった少年をやがて大人の男に変えたのではないだろうかと。

もちろんこれは勝手な想像でしかない。
個人が見えている部分だけを見聞きして感じたことでしかない。
加齢と成熟を敗因にあげるような意図もない。
精神的に成長してなお強さを増した馬だってごまんといるからだ。
ただパドックで再会したアップトゥデイトの静かな瞳を目の当たりにして、どうやら彼は変わった、とだけ強く感じた。
今までの彼とは違うと感じたとき、よぎったのは期待ではなく不安だった。
それでも信じて託した。馬券を買った。
盲信であり過信だったのだろう。
でもそんなことは当たり前なのだ。ずっと思い入れて応援してきたのだから。

アップトゥデイトは故障を克服し、厳しい調教に耐え、レースを終えて無事に帰ってきた。本当はそれだけでいいのだ。
しかし時として期待が過ぎて、ふと初心を置き去りにしてしまう瞬間がある。
期待に舞い上がっていたそんなとき、メインレースより数時間前、パドックすぐ隣の馬頭観音に手を合わせる佐々木師の姿を偶然見かけた。
長いあいだ拝んでいたらしい様子に、馬に携わる人間がまず一番に祈ることは無事にほかならないのだと実感するとともに、私もまた初心を取り戻すことができた。
勝ちを観にきたのではない。
ただ好きだから応援しに、好きな馬の無事を見届けにきたのだと。
回ってくればそれでいいだなんて、最優秀障害馬にかける言葉としてはふさわしくないのかも知れない。
しかし出走するすべての馬に勝利をつかむ権利とチャンスが与えられているように、これが競馬でレースである以上、敗者となる可能性と失敗をおかすリスクも平等にもたらされる。
今回思いもよらぬかたちで敗戦を喫したことで想いはより深まった。
ただ信じて見送って、結果を受け入れよう。
負けを嘆くよりも無事を喜ぼう、これからもずっと見守っていこう。
あのとき何が起きてなぜ負けてしまったのか。
本当に歯車が噛み合わなくなってしまったのか、一時的な低迷なのか、それとも成長と復活を遂げてさらなる新天地へとたどり着けるのか。
すべての疑問に対する答えはこれからの競走生活の中で明かされてゆくはずだ。
障害馬は比較的高齢でも活躍できるとはいえ、体質のことなど鑑みるに、残された時間はおそらくそれほど長くはない。
最後のときまでファンとして彼の成長と戦いの年月に添っていようと思う。


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メイショウアラワシ勇躍の夏。小倉サマージャンプ

小倉サマージャンプを観に行ってきた。
一年ぶり二度目。
小倉競馬場というハコを私はとても好きで、何かしら目的を作ってはほぼ毎年のように出かけている。
タムロスカイが出走する小倉記念を観に。
負傷療養中の佐藤哲三騎手(当時)の近況報告を聴きに。
一年あいて、アップトゥデイトの小倉サマージャンプを応援しに。
そして今年は、メイショウアラワシを応援しに。
以前述べたようにこのメイショウアラワシという馬を私は縁あって応援していて、本当は応援幕のひとつも作って出したいところなのだが、今後の重賞なり暮れの大一番なりでいま幕を出しているアップトゥデイトとの二択を迫られたときに頭が割れるほど悩むことうけあいなのであえて自重している。
いいのだ、すべてのメイショウ馬を応援する素敵な幕が出ていたし、今後も出るだろうから…。

オープン戦を勝って臨んだペガサスジャンプステークスは4着。
前走で大障害コースの一部を経験し入念なスクーリングを経て挑んだ中山グランドジャンプを3着。
よくいえば堅実で大崩れしない、しかし、もうひといき勝ちきれない…
そんな彼が主役に躍り出る最大の好機がやってきた。
今春のJG・1馬オジュウチョウサンは放牧。
アップトゥデイトは新潟。
サナシオンは秋の東京か大障害に直行。
ニホンピロバロンもおそらく秋からの始動。
そう、王者不在の重賞なのだ。
ここを予定していた馬で次走報がアナウンスされたのは、私が把握している限りでは長い休養から復帰するマキオボーラーのみだった。
千載一遇のチャンス。
相手は休み明けのマキオボーラーだ…

と算段していたら緊急事態が発生した。
主戦の森一馬騎手が開催中に負傷してしまったのだ。
レースまであと一週間。
軽症でなおかつ来週の騎乗が可能であることを祈るより他なかったが、月曜の時点での想定は空白。 
では誰が乗るのか、元の主戦である植野貴也騎手にはクリノダイコクテンというお手馬がいるので望み薄い…とやきもきしていたら、水曜日の調教には高田潤騎手がまたがっている。
なるほどそうきたか。
得心するとともに感心し、同時にデジャヴも覚えていた。
アップトゥデイトのときに感じた代打騎乗にまつわるあれこれを、まさかこの馬でも味わうことになろうとは。
調教の段階から厩舎サイドと主戦騎手と馬とが三位一体となって実戦へ向かう障害競走において、乗り替わりはまさに致命。
しかしレースの特性上、落馬のリスクがより高いがゆえに致命となりうる乗り替わりは珍しいことでもないという矛盾と難しさ。
乗せて走る馬も、携わるスタッフも、障害騎手も、三者三様におそらくそういう怖さをもって臨むことになると思われる。
とはいえ小倉巧者の高田騎手。
よくぞ身体が空いていたものだ。
アラワシについても、こと障害競走においては乗り手を問う馬ではないイメージ。
森騎手も幸い軽症だったようで、今回の結果がどうあれ高田騎手にはニホンピロバロンがいるので、すべてが順調ならば今後はすんなりと元鞘におさまることだろう。
そんな先々のことを皮算用しつつ、いよいよ勝負のときがおとずれた。

 

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淡々と周回するメイショウアラワシ。
なかなかに味のある顔をしていて、彫りの深い二枚目半だと思っている。

 

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軽く鼻面を撫でていたところを撮り逃す…
この馬に限らず、師は管理馬とジョッキーをいつもさりげなく送り出す。

 

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ジョッキーが騎乗して気合が乗ってくる。

相手はやはりマキオボーラーだった。
いやマキオボーラーの相手がメイショウアラワシだった。
中段に位置どり徐々に押し上げ終盤にかけてしぶとく脚を伸ばす最善の競馬をもってしても、果敢に逃げた勝ち馬をついにとらえることができなかった。
着差じつに7馬身。完敗だった。
半信半疑。
侮っていた。
長期休養明けでああまで以前の実力そのまま、力通りに走るとは思わなかったのだ。
素養と質で跳ぶ障害競走においては備わった能力が心身の状態(おそらく多少なりともあったであろう不安要素)を大幅にカバーしうるのだろうか。
お手馬を知り尽くした障害騎手の機知とパートナーを信じる勇気、それに応えうる障害馬の力強さをあらためて思い知らされたのだった。

 

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人馬ともに嬉しい重賞初制覇となったマキオボーラーと平沢健治騎手。
ハードな調教にたえられたのもすごいの一言。
見事な逃げ切り勝ちだった。

ペガサス4、
グランドジャンプ3、
そしてサマージャンプ2。
本当に、こういっては何だが、一段ずつというのが実にこの馬らしい。
「火曜日に頼まれて水曜日にまたがった」という高田騎手が限られた時間と機会の中で当馬の特徴をつかみ素晴らしいエスコートをしてくれた。
「トモが緩く左右に流れるところがあるが、飛越がうまく、すごい素質を秘めている(要約)」との力強いコメントもいただいた。
急な乗り替わりについてはただただ残念という気持ちが強かったのだが、違うジョッキーがまたがってみて、それにともなう意見も聞くことができて、漠然とではあるものの違った角度から新たな面が見えたような感覚もあり、今ある中で最善の結果に至ったのだなぁというのが偽らざる気持ち。
これはもう、次こそは一着しかないだろう。
もしかして新潟にも来るかも…と期待していたら早々と放牧に出たようなので、大障害へ向けてどんなローテーションを組んでくるのか楽しみに待ちたい。
見たいのだ。アップトゥデイトとその陣営とはまた違った景色を、勝ち負けに至る過程を、信念のかたちを。 

メイショウアラワシ号とその陣営を、心から応援している。