「この勝利を佐藤哲三騎手に伝えたい。」
キズナが第80回日本ダービーを制した直後に伝えられたトレーナーの言葉だ。
私はすでに泣きに泣いていたが、それを聞いてさらに泣き崩れた。
先生のことだから、きっと感極まって心の叫びがそのまま口をついて出たんだろうと。
あくまで個人的に感じていた憶測でしかないが、二人のあいだにはキズナが最後の大仕事だという共通の意識があったように思う。
ともにゆるぎない自信と万感の想いがあったのだ。
しかし新馬戦と黄菊賞をこのうえない内容で連勝し、さあまさにこれからというときにあの落馬事故が起きてしまった。
その先はあらためて説明する必要もないだろう。
新たな鞍上に武豊騎手を迎え、キズナはまるで天命に導かれるかのようにダービー馬となった。
かつてのパートナーが栄光をつかんだとき、かつて背にいたジョッキーはひとり病室のテレビでその瞬間を見守っていた。
その彼への、公共の電波をフル活用した私信であり心の叫びだった。
哲三騎手が再起をはかるかたわらでキズナ陣営は凱旋門賞を目指し、その後も数々の栄光と頓挫の道を駆け抜けながら、実に長い月日が流れた。
その間、哲三騎手は精力的にさまざまなメディアで近況を報告したり競馬について語らい、佐々木師もまた主戦への激励を絶やさなかった。
今にして思えば、佐々木晶三調教師こそが騎手佐藤哲三の一番のファンだったのだ。
やがてその日はやってきてしまう。
哲三騎手の引退式で花束贈呈に臨んだ佐々木師は終始笑顔だった。
が、その際に握手といくばくかの言葉を交わしあい離れたあと、天を仰いで感極まっていた姿もこの目にしっかりと焼きついている。
本当は誰よりも無念で悔しくて寂しくて泣きたかったのに違いない。
しかし涙はなかった。
新たな門出を迎える同志へのはなむけといわんばかりの笑顔だった。
それから数ヶ月後、カメラの前で佐々木師は人目をはばからずに泣いた。
立場も身の上もある大人の男性があんなかたちで堂々と人前で泣くのを私は初めて見た気がする。
騎手の肩書きを返上してからも日々仕事をこなし、ようやく身辺も落ち着いてきたであろう哲三氏は、そのすぐ隣で神妙な表情を浮かべながら師の言葉にじっと耳を傾けていた。
以下は、おととしの年明け頃にグリーンチャンネルで放送された特番『ジョッキー魂』内で行われた二人の対談(厩舎訪問)の覚え書きである。
晶「いつからだったかなぁ、サクラエキスパートで初めて(一緒に)重賞勝って。
コンビ組むようになったのはタップダンス(シチー)の朝日チャレンジカップから。
(哲三元騎手は)思い切った騎乗をしてくれる。
私なんか競馬勝つのなんて奇跡だと思ってるから、
どうせ負けるなら思い切って乗ってくれたほうがありがたい。
タップダンスの朝日チャレンジカップがあまりにもうますぎて、
亡くなった当時の友駿(ホースクラブ)の会長に
「タップダンスは生涯、佐藤哲三騎手で」って東京までお願いしに行って。
最初の有馬記念の、ファインモーションをつぶした佐藤哲三、
あれはおもしろかったですわ。
あのとき初めて、競馬っておもしろいんだなぁって。
言ったことないけどね、私が三度目が勝負だと思ってたら、
彼は思った通りに乗ってきたのでね。
なんだ、俺の心が分かるのか、と。」
哲「ずっと一緒にやってたらだんだん分かってくる。
先生も僕がどんな競馬するのか分かってると思うし」
晶「10年間で22の重賞を勝たせてもらってね。
哲ちゃん引退して、今なんか重賞出せる馬いませんわ。最悪ですわ(笑)。
(隣の哲三氏を見ながら)もう一回カムバックする?
こうやって、片手で、腕くくって…」
哲「しますか(笑)」
この二人、なんとなく雰囲気が似ている気がする。
いくばくかの未練を残しながら鞭を置いた元ジョッキーに「戻っておいでよ、また一緒にやろうよ」だなんて、たとえ冗談であれ本音であれ、口にするにはかなり勇気のいる言葉だ。
師はそれをあえて本人に言ってのけたのだった。
ほかならぬ師にああ言ってもらえて、過去を過去にしてもらえて、哲三氏もいくらか心の荷が降りたのではと感じた。
だったらいいなと思わずにはいられなかった。
そう思わせるほどに二人の表情はおだやかだった。
二人で笑いあって過去と今との間に線を引いたのだ。
線を引いたからこそ、ようやく師は心おきなく泣けたのだろう。
ああ、ついに彼らの信念の物語が結末を迎えてしまったのだなと、私もまた一緒に泣いた。
対談にはもう少し続きがある。
晶「てっきり調教師の試験受けるもんだと思ってたんだけど。
腕が動かないと、装鞍ができなくてマイナスになるのでね…」
哲「いつか先生と肩を並べてG1勝ち負けしたい。
でも、今のままだと絶対負けるので。
いつも言ってるように、今は今の仕事をね」
晶「来るべきときが来れば。そのときだね。」
哲三氏が「かわいいと思った」キズナである。無邪気でかわいい。
佐々木師は哲三氏と、これまでとは違うかたちであったとしても同じ志を持つ競馬人として切磋琢磨をしていきたかったはずで、本当は調教師を目指して欲しかった、目指すものだと思っていた、いや願っていたのだろう。
結果として佐々木師はこれまでどおりトレセンに残り、哲三氏は決意を新たにトレセンを後にした。
信念を分かち合った二人が袂を分かった瞬間だった。
内と外とで分かたれてしまった二人のゆく道がいつかどこかで交わりあうことはあるのだろうか。
いつの日かそのときが来てほしいと、二人の仕事に魅せられたファンはあの夢の続きを望まずにはいられない。
どんな形であるかは、今はまだ見えないけれど。
一方で、今もなお続いている物語もある。
新馬のころを二人が手がけたアップトゥデイトは最優秀障害馬にまでのぼりつめ、7歳を迎えた今も現役で活躍しつづけている。
同馬を担当しているのは、父の背を見て育ち、タップダンスシチーに魅せられてこの世界を志した佐々木貴啓調教助手だ。
時はこれからもさらに流れてゆく。
かつての名手が背を知る馬たちも順にターフを去り、同じく障害レースの道に果敢に挑んだダローネガは先日競走中に逝ってしまった。
長らく厩舎を支えつづけた彼に感謝をするとともに、ここであらためて冥福を祈りたい。
佐々木晶三厩舎において、主戦をつとめた哲三騎手とともにレースに臨んだ経験を持つ馬は8歳馬のスランジバールと、このアップトゥデイトのみとなった。
アップはあのキズナとは同郷で同期。縁の力を感じずにはいられない。
どの馬も無事に競走生活をまっとうすることを願うばかりだ。
時はさかのぼって2014年12月はじめ、中京競馬場で行われたタップダンスシチー号お披露目の場で、かの伝説の男たちがふたたび一堂に会した。
彼らはそれぞれに年をとっていたが、往年の輝きは色褪せていなかった。
タップは二人の姿をみとめるや否や怒りどおしで、二人はかつて描いた夢をふり返りながら笑っていた。
佐々木師は哲ちゃんがいなくなって寂しいと口にし、哲三氏はすみませんと応酬する。
なごやかな談笑の中で、哲三氏がもう佐々木師を昔のように愛称では呼ばなくなっていたことに気がついた。
ラジオの公開収録という公共の場だったこともあるのだろうが、なにより今はもう生きる世界をたがえた彼なりのけじめなのだろう。
佐々木晶三調教師は、騎手佐藤哲三、人間佐藤哲三に心底惚れていた。
こちらにまでめいっぱい伝わってくるほどの熱量で。
あんなにもひとりの男に惚れられた哲三氏はジョッキー冥利に尽きる。
あんなにもひとりの男に惚れ込んだ佐々木師もトレーナー冥利に尽きる。
お互いに、人間としてホースマンとして生涯最高のパートナーと出会えたのだ。
これを仕合わせと呼ばずしてなんと云うだろうか。
そして、そんな彼らを長らく応援することができた競馬ファンもまた幸せだったのだ。
同志で親友で相棒。
ともに信念を分かちあった彼らのあいだに言葉はいらなかった。
このうえない絆で結ばれた唯一無二の関係だった。
私は、佐々木師が親しみを込めて哲三騎手を哲ちゃんと呼び、哲三騎手が少し照れたように師を晶ちゃん先生と呼ぶのが大好きだった。
これは、そんな二人の信念の物語がひとまず終幕をむかえた際の、いちファンの備忘録である。