うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

哲ちゃんと晶ちゃん先生のお話

「この勝利を佐藤哲三騎手に伝えたい。」

キズナが第80回日本ダービーを制した直後に伝えられたトレーナーの言葉だ。
私はすでに泣きに泣いていたが、それを聞いてさらに泣き崩れた。
先生のことだから、きっと感極まって心の叫びがそのまま口をついて出たんだろうと。

あくまで個人的に感じていた憶測でしかないが、二人のあいだにはキズナが最後の大仕事だという共通の意識があったように思う。
ともにゆるぎない自信と万感の想いがあったのだ。
しかし新馬戦と黄菊賞をこのうえない内容で連勝し、さあまさにこれからというときにあの落馬事故が起きてしまった。
その先はあらためて説明する必要もないだろう。
新たな鞍上に武豊騎手を迎え、キズナはまるで天命に導かれるかのようにダービー馬となった。
かつてのパートナーが栄光をつかんだとき、かつて背にいたジョッキーはひとり病室のテレビでその瞬間を見守っていた。
その彼への、公共の電波をフル活用した私信であり心の叫びだった。

哲三騎手が再起をはかるかたわらでキズナ陣営は凱旋門賞を目指し、その後も数々の栄光と頓挫の道を駆け抜けながら、実に長い月日が流れた。
その間、哲三騎手は精力的にさまざまなメディアで近況を報告したり競馬について語らい、佐々木師もまた主戦への激励を絶やさなかった。
今にして思えば、佐々木晶三調教師こそが騎手佐藤哲三の一番のファンだったのだ。

やがてその日はやってきてしまう。
哲三騎手の引退式で花束贈呈に臨んだ佐々木師は終始笑顔だった。
が、その際に握手といくばくかの言葉を交わしあい離れたあと、天を仰いで感極まっていた姿もこの目にしっかりと焼きついている。
本当は誰よりも無念で悔しくて寂しくて泣きたかったのに違いない。
しかし涙はなかった。
新たな門出を迎える同志へのはなむけといわんばかりの笑顔だった。

それから数ヶ月後、カメラの前で佐々木師は人目をはばからずに泣いた。
立場も身の上もある大人の男性があんなかたちで堂々と人前で泣くのを私は初めて見た気がする。
騎手の肩書きを返上してからも日々仕事をこなし、ようやく身辺も落ち着いてきたであろう哲三氏は、そのすぐ隣で神妙な表情を浮かべながら師の言葉にじっと耳を傾けていた。
以下は、おととしの年明け頃にグリーンチャンネルで放送された特番『ジョッキー魂』内で行われた二人の対談(厩舎訪問)の覚え書きである。


晶「いつからだったかなぁ、サクラエキスパートで初めて(一緒に)重賞勝って。

  コンビ組むようになったのはタップダンス(シチー)の朝日チャレンジカップから。
  (哲三元騎手は)思い切った騎乗をしてくれる。
  私なんか競馬勝つのなんて奇跡だと思ってるから、
  どうせ負けるなら思い切って乗ってくれたほうがありがたい。
  
タップダンスの朝日チャレンジカップがあまりにもうますぎて、
  亡くなった当時の友駿(ホースクラブ)の会長に
 「タップダンスは生涯、佐藤哲三騎手で」って東京までお願いしに行って。

  最初の有馬記念の、ファインモーションをつぶした佐藤哲三
  
あれはおもしろかったですわ。
  あのとき初めて、競馬っておもしろいんだなぁって。
  
言ったことないけどね、私が三度目が勝負だと思ってたら、
  彼は思った通りに乗ってきたのでね。

  なんだ、俺の心が分かるのか、と。」

哲「ずっと一緒にやってたらだんだん分かってくる。
  先生も僕がどんな競馬するのか分かってると思うし」

晶「10年間で22の重賞を勝たせてもらってね。
  哲ちゃん引退して、今なんか重賞出せる馬いませんわ。最悪ですわ(笑)。
  (隣の哲三氏を見ながら)もう一回カムバックする?
  こうやって、片手で、腕くくって…」

哲「しますか(笑)」

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この二人、なんとなく雰囲気が似ている気がする。


いくばくかの未練を残しながら鞭を置いた元ジョッキーに「戻っておいでよ、また一緒にやろうよ」だなんて、たとえ冗談であれ本音であれ、口にするにはかなり勇気のいる言葉だ。
師はそれをあえて本人に言ってのけたのだった。
ほかならぬ師にああ言ってもらえて、過去を過去にしてもらえて、哲三氏もいくらか心の荷が降りたのではと感じた。
だったらいいなと思わずにはいられなかった。
そう思わせるほどに二人の表情はおだやかだった。
二人で笑いあって過去と今との間に線を引いたのだ。
線を引いたからこそ、ようやく師は心おきなく泣けたのだろう。
ああ、ついに彼らの信念の物語が結末を迎えてしまったのだなと、私もまた一緒に泣いた。
対談にはもう少し続きがある。


晶「てっきり調教師の試験受けるもんだと思ってたんだけど。

  腕が動かないと、装鞍ができなくてマイナスになるのでね…」

哲「いつか先生と肩を並べてG1勝ち負けしたい。
  でも、今のままだと絶対負けるので。
  いつも言ってるように、今は今の仕事をね」

晶「来るべきときが来れば。そのときだね。」

 

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哲三氏が「かわいいと思った」キズナである。無邪気でかわいい。

 

佐々木師は哲三氏と、これまでとは違うかたちであったとしても同じ志を持つ競馬人として切磋琢磨をしていきたかったはずで、本当は調教師を目指して欲しかった、目指すものだと思っていた、いや願っていたのだろう。
結果として佐々木師はこれまでどおりトレセンに残り、哲三氏は決意を新たにトレセンを後にした。
信念を分かち合った二人が袂を分かった瞬間だった。
内と外とで分かたれてしまった二人のゆく道がいつかどこかで交わりあうことはあるのだろうか。
いつの日かそのときが来てほしいと、二人の仕事に魅せられたファンはあの夢の続きを望まずにはいられない。
どんな形であるかは、今はまだ見えないけれど。

一方で、今もなお続いている物語もある。
新馬のころを二人が手がけたアップトゥデイトは最優秀障害馬にまでのぼりつめ、7歳を迎えた今も現役で活躍しつづけている。
同馬を担当しているのは、父の背を見て育ち、タップダンスシチーに魅せられてこの世界を志した佐々木貴啓調教助手だ。
時はこれからもさらに流れてゆく。
かつての名手が背を知る馬たちも順にターフを去り、同じく障害レースの道に果敢に挑んだダローネガは先日競走中に逝ってしまった。
長らく厩舎を支えつづけた彼に感謝をするとともに、ここであらためて冥福を祈りたい。
佐々木晶三厩舎において、主戦をつとめた哲三騎手とともにレースに臨んだ経験を持つ馬は8歳馬のスランジバールと、このアップトゥデイトのみとなった。
アップはあのキズナとは同郷で同期。縁の力を感じずにはいられない。
どの馬も無事に競走生活をまっとうすることを願うばかりだ。

時はさかのぼって2014年12月はじめ、中京競馬場で行われたタップダンスシチー号お披露目の場で、かの伝説の男たちがふたたび一堂に会した。
彼らはそれぞれに年をとっていたが、往年の輝きは色褪せていなかった。
タップは二人の姿をみとめるや否や怒りどおしで、二人はかつて描いた夢をふり返りながら笑っていた。
佐々木師は哲ちゃんがいなくなって寂しいと口にし、哲三氏はすみませんと応酬する。
なごやかな談笑の中で、哲三氏がもう佐々木師を昔のように愛称では呼ばなくなっていたことに気がついた。
ラジオの公開収録という公共の場だったこともあるのだろうが、なにより今はもう生きる世界をたがえた彼なりのけじめなのだろう。

佐々木晶三調教師は、騎手佐藤哲三、人間佐藤哲三に心底惚れていた。
こちらにまでめいっぱい伝わってくるほどの熱量で。
あんなにもひとりの男に惚れられた哲三氏はジョッキー冥利に尽きる。
あんなにもひとりの男に惚れ込んだ佐々木師もトレーナー冥利に尽きる。
お互いに、人間としてホースマンとして生涯最高のパートナーと出会えたのだ。
これを仕合わせと呼ばずしてなんと云うだろうか。
そして、そんな彼らを長らく応援することができた競馬ファンもまた幸せだったのだ。
同志で親友で相棒。
ともに信念を分かちあった彼らのあいだに言葉はいらなかった。
このうえない絆で結ばれた唯一無二の関係だった。

私は、佐々木師が親しみを込めて哲三騎手を哲ちゃんと呼び、哲三騎手が少し照れたように師を晶ちゃん先生と呼ぶのが大好きだった。
これは、そんな二人の信念の物語がひとまず終幕をむかえた際の、いちファンの備忘録である。

心は記憶と感情の器

長年撮りためてきた画像のデータをGoogleフォトにバックアップした。
容量が増していくたびに「ある日突然これが全部飛んでしまったらどうしよう…」「そうなるかもしれない前になんとかしなければ…」と気が気でなかったが、これでひとまず安心だ。
デジタルカメラのメモリとスマートフォン端末をいっぱいにしていた中身をすっきりさせたことで、心のつかえがとれて身軽になった気がした。
ほんの少しの心もとなさとともに。
いま私は、自分の頭の中において、それと同じことをしようとしているんじゃないだろうかという疑念とともに。

ひとは忘れる生き物だ。よくも悪くも。
にもかかわらず、ひとには絶対に忘れたくないことがたくさんありすぎる。
だからこそ思い出のインプットとアウトプットをすることによって記憶のバックアップをとろうと試みる。
方法はひとによってさまざまだろう。
私にとっては写真と文章。
記憶が鮮明なうちに撮ったり書いたりつぶやいたりしたことが、埋もれた思い出をとりだすための鍵だったり、ちょっと立ち戻って見返すためのしおりとなるのだ。

その思い出を急ピッチで整理していこうと思いたった。
自分の中のとある事柄がもうじきひとつの年月の区切りを迎えるにあたって、これまでずっと大切に心の中にしまっておいたものを目に見える形として残しておきたかったからだ。
先日からちょっとずつとりかかっている。
ひとつ仕上げるたびにひとつ肩の荷がおりてゆく。
忘れまいと気を張っていた、忘れられずしきりに思い浮かんでいたことからの解放でもあった。
でもこの解放感って画像データのバックアップをとったときの安心感と似ているなと気づいたとき、なんとはなしに罪悪感のようなものを覚えたのだった。
忘れたくないから書いてるのに、書きおわって安心したら忘れてしまうのではないかと思い当たって怖くなった。
まるで安心して忘れたいがために急いて記録しているようにさえ思えてきて、自分で自分の頭と心が怖くなったのだ。
書いて消してをくり返すうちにいまある自分の心が空っぽになってしまいそうで後ろめたい反面、いつまでも忘れられない過去の未練にとらわれつづけていくのはつらいとも感じている。
その気持ちの昇華をするためにこそ書いている。
いまもなお葛藤はつづいている。
明確な答えはでていないし、まだ割り切れてもいない。
が、人生だってそんなものだろう。
私にはこれしかない。
絶対に忘れたくないことがあって、覚えておくためには書くしかないし、なにより私自身が書いておきたいのだ。
答えははじめから決まっていた。

ところで、それにしてもスマホはよく壊れる。
ひとの心もわりと簡単に壊れるらしい。
私事ながら人生大失敗したときにややきわどい時期がしばらくあって、まあ壊れるまでにはいたらなかったのだが(我ながら頑丈にもほどがある)、幸か不幸かその当時のことをあんまり覚えていないのだ。
ひとから言われてようやっと思い出すこともあれば、どれだけ諭されてもまったく思い出せないこともある。
あのころきつかったことが完全に過去となってからなんとなく唐突に思い出したこともある。
壊れないようほどほどに自己防衛が働いていたのだと思われる。人間の脳の神秘である。
生きていくというのは、たぶんそういうことのくり返しなのだろう。

ひとは忘れることで生きていける。
ひとは思い出があるからこそ生きていける。
矛盾に満ちているけれど真理。
ひとの心は記憶と感情の器だ。
器の中は、過去をよりどころにした記憶の容量と、いまとこれからを生きるための感情の容量とでまざりあっている。
どっちが重すぎても軽すぎても、おそらくうまくいかない。
ひとそれぞれにちょうどいいバランスがきっとある。
忘れる自由と覚えている自由、はじめからどちらも持ちあわせているのだ。
時機がきたからだとか、いつまでもこだわりつづけるのはよくないからといって無理に想いを打ち消す必要もなければ、忘れ去ることは裏切りや罪悪とばかりに自分を責める必要もない。
そもそもひとの心はデジタルのデータのようにきれいに消したり足したり、ファイル分けしたり、割り切ったりできるものではないのだから。
でも、前を向きたいからだとか、あのころの気持ちをいま一度呼び戻したいだとか、自らにとって必要なことならばそうするための工夫をすればいい。
ほかならぬ自分自身の心なのだから。

忘れてもいい。覚えていてもいい。
自分をほんとうに許せるのは、自分だけだ。

エスポくんと、ごっちゃんと、てっちゃんと

「あれ?何かつながりあったっけ?」
思わず声が出た。
ほかならぬ相棒のこと、長い戦線離脱という同じ境遇にある主戦騎手が口をきいたりしたのかな?
というふうにまずは解釈したが、落ち着いてほんの少し紐解いてみればチャクラ、メイショウオスカルの頃からのつながりが浮かびあがってきた。
トレーナーとジョッキーとのあいだには実に十年来の深い信頼関係が築かれていたのだ。
かくして宙に浮いていたエスポワールシチー号の手綱は、ごっちゃんこと後藤浩輝騎手に託されることとなった。

彼は長らく迷いの中にいた。
迷いというより恐れだったのかもしれない。
迷いと恐れを抱き前へ進もうとしている人間に対して、思いやりや誠意を適切な態度で示すことは簡単なようで難しい。ましてや実利が絡むともなれば。
綺麗事だけではもちろんはなく、師いわくゲートのうまいジョッキーに乗ってもらってスタートのちょっと苦手なエスポを何かしら工夫してもらいたかった意図だとか、これまでの関係性からの頼みやすさ、オーナーであるクラブも含めて、諸々の見解の一致もあったのだろう。
「この馬に乗って」とお願いするというのは、全部ひっくるめてそういうことなのだ。
彼が復帰を表明してから一番はじめに飛び込んできた騎乗依頼だったという。
騎手後藤浩輝復活への筋道を、誰よりも早く提示したということだ。
乗り役としてもっとも欲しかった信頼の証を胸に、彼は信じた道へと勇気をもって挑むことができたに違いない。

さらに時をさかのぼれば、哲ちゃんこと佐藤哲三騎手もまた迷いの中にいた。
いわく「ケガでモヤモヤしていた」とき、師は彼にエスポワールシチーの一切を任せたという。
この先はあまりに有名な語り草となっているのでくわしくは省略する。
夏のあいだ小倉へ連れて行きたいと言われればそのとおりにし、僕の言うタイミングでレースを使って欲しいとお願いされたら、使える状態にあってもじっと主戦のゴーサインを待った。
今どきこのご時世において、厩舎サイドと乗り役がこんなにも深いかかわりを持てるものなのかと、ジャパンカップダート後のレース回顧や数多の後日談に耳を傾けながら感銘を受けたものだ。
そしてそれがとても稀有なものであるということもすぐに想像がついた。
丁寧に対話を重ね、最善を尽くし、すべてを慎重に積み重ねながら築きあげられた信頼関係だった。

名馬エスポワールシチーを通して私が見たものは、馬と人、人と人との熱く優しく強いつながりにほかならない。
数々の数奇な縁をつなぎ合わせた先に未来と栄光があったのだ。
二人の騎手にとっては希望そのものだっただろう。
彼らを見つめるファンにとっては夢そのものだった。
エスポくんとともに勝利を掴んだごっちゃんをまぶしく見つめながら、私は、彼をふたたび現役のジョッキーとして応援できるファンの人たちがうらやましかった。
このことを誰とはなしに言おうか言うまいか、この今が過去になったときにでもそっと独り言のように打ち明けられる日が来るだろうと考えているうちに、決して口にしてはならない言葉となってしまった。

彼らがともに信頼しあったから。
彼らが馬を人を信じたから。
彼が想いのすべてを汲んで乗ってくれたからこそ、たくさんの人が、あんなにも一緒になって喜べたのだ。
今も目に焼きついている。
あのときの記憶が鮮やかなままで時計の針は止まっている。
彼が一度進めた時間の流れだ。
もっと見ていたかった。
見ていられると信じるには充分すぎるほどに、確かな手応えだったのだ。

そして彼らはステッキを置いた。
信念を分かち合った二人の名手の引退に際して、彼らを陰ながら支えた安達師はそれぞれに惜別の言葉を贈っている。
同じ口を開くのならば、あんなふうにあたたかい言葉をかけられる人間でありたいものだ。
ねぎらいながら想いを伝えることは、とてもとても難しいことだけれども。

気がつけば二年と少しの月日が経っていた。
今年度はエスポワールシチーの子どもたちのデビュー年だ。
地方からはすでに産駒の健闘が伝えられている。
歓喜にわく日はそう遠くないだろう。
あのとき夢に見た希望の物語は、ほんの少し形を変えて、ずっと続いていく。

 

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ツイッターにトリセツはないけれど

ここにやってきた人って、もともと他人としゃべるのはちょっと得意じゃないけど別に人間が嫌いというわけじゃなくて、むしろもっと人と話をしてみたくて、なにより自分の中に話してみたいことがたくさんある人たちだと思うのですが、どうでしょうか?
ゆるいつながりとはいってもある程度つづけていればそれなりの関係は生まれてくるもので、たくさんの人間がいてたくさんのコミュニティがあれば、どこかに属し誰かとつながる喜びと悩みはいつも背中合わせ。
はじめのうちは気がねなく、ゆるく楽にいられたはずなのに…。

この人とはつながりも絡みもなかったはずなのに、ふと気づいたら先んじて拒絶されていた。
それなりにやりとりがつづいていたのに、いつの間にか関係が一方通行になっていた。
前にお別れしてしまった人にもう一度ちゃんと謝りたいけど自己満足もはなはだしいから踏み出せない、でもいつまでもモヤモヤと後悔が消えない。
もしかしてただ気づいてないだけで、自分は不特定多数の人に嫌な思いをさせてるんじゃないだろうか。

やりとりを重ねて親しくなった人とオフで対面してみたもののオンのときのようにうまくいかなくて、ツイッターと違っておとなしいんですねあんまり喋らないんですね、とがっかりさせてしまったかもしれない。
オンラインではついつい違う自分を演じてしまう。

いい作品、いい人、いい言葉と出会ったとき、自分にはないものを羨んで、自分には何もないことを思い知らされる。
本質は同じようなことを言っているはずなのに他の人のほうがうんと注目されて評価されるのはどうしてなんだろう、自分の伝えかたはそんなにだめなのかな…
などなど。

言葉や作品は、表に出した瞬間その人からはいったん離れて、受けとる相手に全部ゆだねられます。
たとえば『会いたい馬や人には会えるうちに会っておこう、行きたい場所には行けるうちに行っておこう、後悔しないように』という前向きで素敵な言葉も、家庭や仕事や身体の事情でそうすることが難しい人にとってはつらい言葉となってしまうかもしれない。
人の心とは多面体で、いいものをいい、そうでないものとそうでないなぁと客観的にジャッジする反面、今の自分の想いや境遇にあてはめて本音では共感したり、勇気づけられたり、あるいは反発したり、憤ったり、拒絶したり…
本当に、受けとる人によって見える聞こえるかたちが変わってくるものです。
絶対的な善悪はさておき、あれが好きとかそうでないとか、あなたはわたしはこう思う、というような個人の想いに正解不正解をつけられるわけがなく。

万人が巧い、素晴らしいと口をそろえる作品があるかたわらで、一部の熱狂的なファンを虜にしている作品もあります。
他の人には数ある競馬写真の一枚にすぎなかったとしても、もしも被写体が自分の好きな馬や人だったら『撮ってくれた人にお礼を言いたいくらい嬉しい!わたしにとってはこの一枚が最高!』という思いがけない出会いもあるはず。
そして、どこかの誰かにとってのそういう一枚を、もしかしたら自分が撮っているかもしれない。
もちろんこれはほんのたとえばなしで、写真でなくても絵や文かも、もしくはハンドクラフトかもしれないし、なにげない気持ちで投稿したツイートかもしれない…

ツイッターではいいね・リツイートの数で評価が可視化されてしまうぶん絶対的な指標ととらえられがちです。
数の評価というのは目に見える確かなもので、それを欲するのは作ったり表現するうえでのあたりまえの欲求なので無理もありません。
が、大多数のみんなが一番欲しいものは、評価ではなく共感なんじゃないでしょうか。
わたしの好きなものを知ってほしい、見てほしい。
自分はこのことについてこう考えてるんだけど、みなさんはどうですか。
リプライがつくと嬉しい。
いいねがつくともっと嬉しい。
リツイートされると同意してもらえたような心強い気持ちになる…
原点はそこにあると思うのです。

いわゆる“バズってる”ツイートって、大多数の人の胸のうちにあるであろう『そうそう、あるある』を簡潔明瞭かつ巧みに言いあらわした140字だったり、パッと見ただけでわかる日常の中の『あっ』という風景を切りとった画像だったり、共感を呼ぶものが多いです。
共感が共感を呼んであれよあれよという間に…というやつです。
逆にあんまり奇をてらったものは見ないような。
評価を狙って作られたものって、案外みんな無意識のうちに見抜いてるということかも(そうして狙った評価をきっちり得られる人はその道のプロです)。

いいものを作ろう、いいことを言おう、いい人でいたい。
面白いこと役立つことを言わなきゃ価値がない、飽きられる、離れられるんじゃないかしら。
ありのままをすべてさらけだす必要はないけど、こうありたい自分を演じるのは、、、
もしかしたら、人によっては楽しいのかも。
でも、ちょっと頑張ってそうしてると、いずれしんどくなってくるかも。
タイムライン上の饒舌な自分も現実世界での人見知りな自分もどっちもわたしなんだから別にいいじゃないですか。ちょっとくらい失敗しても。

物事には始まりと終わりがあります。
同様に、人には出会いと別れがあります。私はどちらも卒業ととらえてるのですが。
ツイッターそのものだったり、つながっていたあの人だったり、ずっと取り組んでいた趣味だったり、愛でつづけた作品だったり。
人間は前へ進んだり後ろを振り返ったりしながら考え方や感じ方が変わっていくものです。
ずっと同じ人が神様じゃなくていい。
自分の中に実在する神様を据えると、なにかあったとき、気持ちが揺らいだときにしんどいです。
ずっと同じものを同じ熱量で好きでいるのはとても難しい。
どんな生き物もずっと全速力で走りつづけることはできません。
そうして愛していたものや考えかたが今までとはちょっと変わってしまったなと自覚したとき、『嫌いじゃないけど、いったんさようなら』と誰か何かから距離を置くことは、決して拒絶や嫌悪からくる後ろ向きな別れではないはずです。
自分もいつかどこかでしているし、されているかもしれない。
最初から価値観を大きくたがえた相手とならなおさらのこと。
いつかどこかでタイミングが合ったときに、情熱がよみがえったときに、想いが通じたときに、縁があればまた結びなおせばいいじゃないですか。
幸運にも相手が同じ気持ちでいてくれたなら。
でなくでも思い出は確かに心の中にあり続けるのですから。

私事ではありますが、ツイッターに流れ着いてはや7年がすぎました。
趣味である競馬に紐づけて言いたいことを言うために軽い気持ちでアカウントをとったのが、時を経て今ではそれ以上の意味合いを担う場となっています。
人との関係や好きなものと向き合う姿勢について考えたり、なんだかとてもいろいろあった気がするのですが、この空間の中での悩みって数年前も今も老いも若きもだいたい共通してるんじゃないかなぁと感じています。
ゆるいつながりのSNSとはいえ根本は人と人とのかかわりなのだから、コミュニケーションツールとして以上の取扱説明書なんてないのです。
でも、人は人の気持ちを察して思いやることができます。
他者とのかかわりを通して自分を大切にすることもできます。
この頃はさすがにそのへんのやりかた、割り切りかたがちょっと分かってきた気がするので、ツイッターはじめたてであれこれ悩んでいた自分がどこかの誰かに言って欲しかったであろうことを暫定のベストアンサーとして挙げてみました。備忘録として。

いつのときも勇敢な挑戦者。アップトゥデイト、二度目の中山グランドジャンプへ

勝つことしか考えていなかった。
アップトゥデイトオジュウチョウサンを打ち破るには自分の競馬、セーフティーリードをとって持久力勝負に持ち込むよりほかないと、当日までに何度も何十度も、想い描いていた。
レコードを叩き出したしたおととしの再現、道中でオジュウチョウサンにマークをさせずに三角でどれだけ後続を突き放しているか、いかに持ち味のロングスパートを成功させるかが鍵だったのだ。
陣営はこの日のために乗り込みを増やし、スタミナ強化に努めてきた。
まさにメイチの出来にあった。しかし。
逃げるメイショウヒデタダを追走し、仕掛けのタイミングで前をとらえにかかるも後ろとの間隔を大きく広げるにはいたらず、とうとう自身も捕まってしまった。
直線を向いて勝ち馬との差は広がるばかりで、末脚に懸けたサンレイデュークの後塵をも拝した。
主戦の林満明騎手いわく、本番では気合が乗りすぎて跳びがよくなかったという。
賢い馬なので雪辱を果たしたいという周囲の期待を敏感に察していたのだろう。
持ったままで並びかけてきたとき、オジュウチョウサンの手応えは唸っていたという。
完敗だった。

私は彼をちゃんと理解していなかったのかも知れないな、と思った。
なんというか、私の想い描くアップトゥデイトと、アップトゥデイトそのものは違うのだ。当然のことながら。
着差以上の強大な力に愛する馬が打ち据えられて、それはもう悔しいのだけど、ひとりでに涙が出てくるくらい悔しかったのだけど、当然それって自分の気持ちのための悔しさなのだ。
どうして、っていっても、頑張って走って結果が出た以上、どうしてもだし、現実がこうなのだ。

アップトゥデイトそのものを一番よく知っているのが厩舎陣営であり主戦騎手だ。
どうして逃げなかった、どうして離さなかったというのは、それはもう結果でしかない。
逃げられなかったのだろうし、逃げないほうがいいと判断したのだろう。
行ったけど離せなかった、離さないほうがいいという判断だったのだろう。
初めての大障害コースに挑み、自分たちの競馬に徹したメイショウヒデタダが最下位に沈んでいるように、深追いをするのは危険だと察したのだろう。
果敢に挑んで散りゆくさまは美しい。挑戦者の美学だ。
一理あるが、そうして無理をおして大敗し、リズムを崩した馬をこの十年のあいだに何頭も見てきた。
ファンは自らの理想と願望とを人馬に当てはめて夢を見たり馬券を買ったりできるものの、願い祈るだけで彼らを応援する以外に何もしてやれないし、ましてや一緒に責任を負ってやることもできない。
たしかに競走馬は戦うために、勝つために生まれてきている。血を繋ぎより強い力をと生産されている。
だからといって、命を賭して闘った人馬を、心身ともにすり減らして帰ってきた彼らを、勝負に敗れたからといって、力が及ばなかったからといって、展開に翻弄されて力を発揮できなかったからといって、下手だった、弱かった、だらしがなかったなどと切り捨てることはできないししたくはない。
ときに事実としてそういうこともあるのかもしれないが、私はそれを判断するだけの知識も経験も立場も持ち合わせていない。
あったとしてもできないし、しないだろう。
ファンはいつだって見るだけ。言うだけ。思うだけ。感じるだけ。
だから信じて受け入れる。
アップトゥデイトは最善を尽くして絶対王者に、なにより自分自身の限界に挑んだのだから。

無事に闘いを終えて帰ってきてくれたからこそ、次のこと、これからのことが考えられる。
今日もこれまでもいつのときも、いちファンとして『絶対に勝てる』という一心で、彼の力に見合うだけの期待をかけて応援してきたが、今回の勝負づけを見て、いよいよ来るべきときが来たのかもしれないと一抹の覚悟が胸をよぎった。
しかし私は決して夢を諦めない。彼らが挑みつづける限り。
蓋を開けてみなければ中身のわからない宝箱のように、競馬というものは必ずしも一番強い馬が勝利を手にするわけではない。
勝った馬こそが強いのだと讃えられ、歴史に名を刻む。
しかし讃えられ記録と記憶に残るのは、必ずしも勝者だけではない。
敗者もまた勇敢な挑戦者なのだ。

アップトゥデイトはもはや私にとっては競馬の歴史そのものとなった。
その名が示す通り、常に新しく、進化を遂げ、自身を塗り替えていく。
生まれた時代が悪かったという声も散見されるが、彼自身もまた記録と記憶に残る輝かしい一時代を築いたのだ。
願わくばふたたびの栄光を。いつのときも最善と最良を。
私の夢と彼らの挑戦はこれからも続いていく。

 

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