うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

蕾の桜に夢を見て

サウンドキアラが阪神ジュベナイルフィリーズを除外された。
勝馬は9頭が駒をすすめることができる抽選で、まさか確率12分の3のほうにふり分けられるとは。
しかし4頭に1頭。決して低い数字ではない。
出られるものと信じて、夢を想い描いて、ひとりで舞いあがっていただけに、いざ否とつきつけられてしまうとショックが大きかった。
この落胆は、見たいと望んだものがひとまず見られなくなってしまった淋しさだ。
サウンドバリアーショウリュウムーンがいた2010年桜花賞をもう一度見なおしたくて、私はひとりで勝手に焦っていたのかもしれない。

彼女たちが競馬場にいた頃の私は無知だった。
競馬の何たるかも知らずに。
一勝の重みもわからずに。
馬のそばにいる人たちのことも、彼らの献身も当たり前のことと思い。
他人の気持ちも推し量れずに、夢や浪漫という甘い言葉を大義名分に厳しい挑戦を望み、好きな騎手の勝ち星となってほしいがために馬を応援した。
あのときのまっすぐな感情に嘘はない。
まっすぐだったのは己の欲望だ。
何も知らないままに、ただただ無我夢中だった。
彼女たちを愛していたのは本当だったけれども、限りなく利己的で、自分のための愛に近かったように思う。
たったひとりの世界で、幸せで自分勝手な夢をひたすら見つづけていた。
見るべきものも見えないままに。

敬愛してやまなかった元ジョッキーがかつての相棒たちをいとおしそうに語るたびに、私は応援していた馬たちに謝ってまわりたい気持ちになる。
人間のために馬に声援を送っていたあの頃の、無知で無我夢中ゆえの視野の狭さを申し訳なかったと。
悔いてなどいない。ただ思わずにはいられない。
競馬と出会って十年が過ぎたいまならば分かることがあって、もっと違う愛しかたができたのに。
見えなかった、知らなかったものの中にこそ宝はあったのにと。
過ぎゆく時の流れの中で私にとっての競馬はもはや、たったひとりの世界だけではなくなっていった。
まず馬がいて、周りに人がいて、馬と人、人と人とが共にいる。それが私にとっての競馬だ。
たったひとりだけではなく、自分以外の、想う相手の、誰かのために祈り願うことが山のようにある。
夢から覚めて愛情のかたちが変わったのだ。

サウンドキアラはサウンドバリアーの娘だけれども、サウンドバリアーではない。
コーディエライトも同じ厩舎の管理馬ではあるけれども、ショウリュウムーンではない。
しかし幾多の縁を今日まで大切につなぎつづけてきたからこそ、こうして夢のつづきに想いを馳せられる。
もう、あの頃ではない。いまとこれからが無限にある。
ひとまず違う道をゆくこととなった彼女たちの未来が光り輝くように。
願わくば桜の下に集えるように。
無事と最善を祈りながら、蕾が花ひらく夢を見る。

 

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わたしはあなたの言葉が聞きたい

ツイートがちょっとバズった。
とはいえ何千何万の大きい話ではなく、いいねリツイートあわせて数百の微々たるものだ。
趣味と日常を細々と綴っているだけにすぎない個人アカウントにはありえない反響だったので、「なんでこれが」「あたりまえのことを普通に言っているだけなのに」「同じことなら競馬の文章か写真で反応されたいものだなぁ」と小心者は唸りつつ、黙ってなりゆきを見守っていた。

ジェンダーの問題はよく“燃える”と思い知らされた。
“一方的に好意を抱いて距離を詰めてくる男性に恐怖を感じてしまう女性”の体験と心情を綴った連作漫画への共感と、漫画への一部の反応に対する率直な感想だ。
(『私は男性が怖い』は正真正銘“バズった”漫画なので検索をかけたらすぐに出てくるかと)
誰にとっても“我がこと”なだけに、自らの性別ゆえに誰しもが多かれ少なかれ抑圧され、胸の内にくすぶる想いを抱え込んでいるのだろう。
さてどんなひとが読んでくれたのかしらといくらかホームをたどってみると、たくさんのリツイートをタイムラインに並べてはいても、何かに真剣に怒ったり嘆いたり悩んだりはしていても、自分の言葉で意見を述べているひとがあまりいないように感じられた。それが少し淋しかった。
つぶやきを通じてすれ違ったひとがどんなことを考え感じているのかを知りたかったのだ。
ところがホームを通して伝わってきたのは漠然とした負のモヤモヤだった。
たまたま流れてきた私の言葉を借りて何かを否定批判したり、誰かを攻撃するための武器として使っているのなら嫌だなとも思ったが、おかしなことを言ったつもりは毛頭なかったのでツイートは取り消さなかった。
言及も補完もしないでおいた。
何百の反応があった中で嫌な絡みは一通もこなかったので、自分の言葉にも判断にも過ちはなかったと信じたい。
いいねリツイートは他意のない共感だったのだろう。
そうなのだ。あたりまえのことにこそひとは共感したり、安堵を覚えたりするのだ。
数日経てば通知は鳴りやんだ。

議論なり提唱なり主義主張なり、確固たる信念があるのならば、なおさら自分の言葉でやるべきじゃないのかな。
常々そう思ってはいるけれど、自分の想いを言いあらわすすべを持たない、やりかたを知らない、伝え慣れていないひとは案外多いのかもしれない。
想いを言葉で伝えるというのは、想像するよりずっと難しくてハードルが高い行為なのかもしれない。
私だとて、いつまでたっても未熟者だ。
拙いながらも一生懸命に考えて、心の内から生まれた名無しの感情にひとつひとつ言葉を当てはめて形にしていっているだけにすぎない。
形にするまではぼんやりただようだけの感情の集合体。
持て余したモヤモヤは、そのまま吐露するにはあまりにも頼りなくとりとめがない。
だからこそ書く。形を与える。名前をつける。命を吹き込む。
私はそうやって自らと向き合ってきた。ひとと関わってきた。
書くことは生きる力にもなりうる。

ただ願っている。
書く場所を選んだのなら、書くことを怖がらないでほしいと。
気持ちを察してとか、黙っていても分かりあえるとか、人間の良心や深謀遠慮をありがたがるようにひとは信じようとするけれど、想いや考えはやはり言葉にしなければ伝わらない。
リツイートも、ネットスラングも、スタンプも、コラージュも面白いけれど。
いまの時代、的確に伝えるツールはそこかしこにあふれているけれど。
整然とした手ざわりのいい型枠にはとても収まりきらない想いも、生きていれば何かしらある。
時にはもっと自分の内なる想いの力を信じる瞬間があってもいいのだ。
ひとにものを伝えることは素晴らしい。ひとの想いを受けとることも素晴らしい。
だから、言葉にすることに億劫にならないでほしい。
自ら発したものを、たとえば「駄文ですが」と必要以上に貶したり、恥じたり、茶化したり、濁したりするのももったいない。
誠実な言葉には魂が宿る。
ひとはそれを言霊と呼ぶ。

怒ってるんじゃなくて。嘆いてるんじゃなくて。
否定批判じゃなくて。悲しいのでもない。そんな大げさな話でもなくて。
ただ、このごろ少し淋しいから、誰にとはなしに願っている。
「わたしはあなたの言葉が聞きたい」と。

愛と情熱と、年齢とモチベーションのお話

東京ハイジャンプ秋華賞、買えないときにかぎってピタリと予想が当たる。
「まあいっかぁ」と苦笑いしてしまった時点で、私はもう馬券をたしなむ競馬ファンとしては終わりに向かって歩いているのかもしれない。
「絶対に走る」と見込んでいたグッドスカイとディアドラが結果を出したことは嬉しかった。
でも、当の私自身は力が出ないのだ。このところずっと。
「もういや」ではないし、「もういいや」でもない。
「もういいか」と「もういいのかな」のあいだを行ったりきたりしながら、どうにかつながりを保ちつづけている。

ふり返れば競馬とはかれこれ十年のつきあいだ。
ひとつ知ればまだ知らないこと、知りたいことが次から次へとあふれ出して、知れば知るほど好きになった。のめり込んだ。
いつしか競馬は暮らしの中にさえ溶け込んで、季節や概念そのもののようになっていた。
敬愛できるジョッキーと出会えた。
最愛の馬とも出会えた。
彼らとの出会いが、ほどなく競馬を趣味の域を越えた特別なものへと変えていった。

人馬を大切に想うがゆえゲームに興じられなくなった。
キズナをかわいいと思ったから引退を決めた」とは佐藤哲三元騎手が現役を退いた際の名言だが、氏のそれとはまた似て非なる感情だ。
競走馬と彼らに携わる人々を敬愛するあまり、私の中で競馬が神聖なものになりすぎたのだ。
気軽に思ったこと感じたことが言えなくなったり、他人の冗談を許せなくなったり、レース結果を茶化せなくなったり。
夢中になればなるほどに言えない、できないことが増えて、自由をなくし、自らに課した重みで身動きがとれなくなった。
そんな中で、ついに愛する存在を競馬の中から失った。
馬にも人にも私自身にも、等しく時間は流れるのだった。

以前のように競馬に対して情熱を注げなくなっていることに気がついた。
愛は変わらずありつづけるのに、応援している馬や人は他にもいるというのに、目的や意義は山ほどあるというのに。
決して気づきたくない事実だった。
薄々感づきながらも懸命にごまかしつづけていた真意がまとわりついて離れなくなった。
エネルギッシュになれない己自身に幻滅し、これまで抱いてきた愛への裏切りにさえ思えて、熱意を維持しようと足掻けば足掻くほどに心がすり減っていった。
つらかった。
まだこんなにも愛しているのに、愛に偽りは微塵もないのに、どうしてこんなにもはっきりと終わりが見えてきてしまうのか。
それでもなお競馬からは離れられない月日の流れの中で、やがてひとつの結論にたどり着いた。

人は年をとる。
年をとるということは、考え方や生き方が変わること。
年相応に成長するということだ。
好きなものとの関わり方、想い方も変わってゆくだろう。
好きなもの自体が変わることだってある。
年齢、環境、自分自身。
年月の移ろいとともにすべてが少しずつ変化してゆく中で、数えきれないほどのいろいろな取捨選択をしながら、人は生きてゆく。
趣味とは人が人らしく生きてゆくための活力であり、人生における彩りだ。
だからこだわりつづける。あるときは人生そのもののように。
強すぎるこだわりはいずれ執着となる。
過ぎた執着は人を苦しめる。愛したものであればあるほどに。
いつしか私は趣味にのめり込むあまり、愛したものたちに依存し、自ら成長することを拒みつづけていたのだった。
もういい加減で大人にならなければ。ひとつ成長するときがきたのだ。
しかし、大人になることとは、愛したものを捨てることとは違う。
そのことにようやく気づけたのだ。
だからもう大丈夫だと。

若かったころ、愛とは無限のものだと信じていた。
愛さえあれば情熱は永遠に注ぎつづけられる、愛が無限に情熱を与えてくれるのだと信じて疑わなかった。
好きな人馬との別れを幾度となく繰り返すうちに、すべての物事には必ず始まりと終わりがあることを学んだ。
己の気持ちを偽ったり無理をしつづけているうちに、いずれ愛はすり減るし、情熱も涸れる。
疲れ果てて嫌にすらなるかもしれない。
そうならないためにはどうすればいいのか。
愛と情熱も有限で、終わりが存在する。
大切なのは終わり方、休み方なのだ。
情熱とは元気な自分自身の心の奥底から生まれる。
無理やりに愛をつなぎとめるために絞り出した偽りの情熱は、やがて執着となって心身を蝕む。
まずは自分自身が健やかでなければ、好きなものを楽しむための力はわいてこないのだ。
楽しめるときは楽しむ。楽しめないときはゆっくり休む。
自らの気持ちに抗わない。想いを偽らない。
たとえ一度夢中になって取り組んだものから離れることになったとしても、心の片隅に愛する気持ちが残っていれば、ふたたび眠っていた情熱に灯をともせる日もくるだろう。
だって人生は長い。人間は強い。
愛と情熱は有限ではあるが、時と場合に応じて充電だってできるのだ。

私は今も競馬と関わりつづけている。
情熱から熱のほとんどが引いて、愛と情が残った状態で。
時折は競馬場へ行き、写真を撮り、ささやかな馬券を買い、現地へ行かない日もそれとなく競馬のことを考える。
考えないときも増えたけれど、関心の範囲は間違いなく狭まったけれど、やはり季節や概念のように当たり前にそこにある。
明日の天皇賞を迎えれば競馬歴はいよいよ十年に到達する。
好きで応援している人馬との縁が今日まで私をこの世界に引き留めさせた。
しかし、なおも踏みとどまるのは間違いなく私自身の意志でだ。十一年目もそうなるだろう。
これを情熱と呼ばずして何というだろう。
私はやはり競馬が好きだ。
これを愛と呼ばずして何というだろう。

明日も雨の中、彼らに会いに競馬場へ行く。

おとなのかんそうぶん『機動戦士Ⅴガンダム』

結論から述べますと、とんでもなかったです。
Stand up to the Victoryなんてオープニングで明るく歌うもんだからてっきり元気な男の子がガンダムを駆って女の子を守る爽快なSFアニメとばかり思っていたのに…!(笑)
Amazonプライム無料体験の恩恵と、本作の特典期間が9月末までという期限が切られたなか駆け足で敢行したひとり観賞会。
先入観を持たず楽しむために視聴中はネタバレや他人の見解には目を通さなかったのだが、このⅤガンダム、とんでもなく凄惨で陰鬱なことで有名な物語だったのだ。

主人公の少年ウッソ・エヴィンはひょんなことからザンスカール帝国軍のモビルスーツを奪い乗りこなしてしまったことがきっかけで戦闘に巻き込まれ、反乱組織リガ・ミリティアと行動を共するうちにヴィクトリーガンダムパイロットとなる。
組織の大人たちは、優秀で“スペシャルな”ウッソを頼り、戦うことを強要する。
戦争は嫌ですと言えば他人事じゃないぞと脅し、良心の呵責に苦しんで敵をとり逃せば説教する。本当にとんでもない。
冒頭でウッソの幼馴染のシャクティが呆然と立ちつくしながら「この人たちみんなおかしいわ」と洩らしていたが、戦争で狂うというのはこういうことなのかもしれない。
異常が日常へと溶け込んでくる描写がぞっとするほどに生々しい。

葛藤しつつも戦いに明け暮れるウッソ少年にも、年頃の男の子らしく憧れの女性がいた。
彼がカテジナさんと呼び慕う相手は商家のお嬢様で、ウッソの一方通行な想いであったものの二人はペンフレンドの間柄だった。
彼女の家庭は裕福ではあったが家族仲は冷え切っており、母は不倫で家を留守がちに、父親は高慢で暴力的な男。
そんな事情を知ってか知らずか、ウッソは家の二階で物思いにふけるカテジナさんを見あげたり、せっせと盗み撮りをしては胸をときめかせていた。
カテジナはウッソをやや煩わしく感じてはいるものの、表だって咎めだてはせずに当たり障りなく接する良識的な少女だった。
目的のためならば手段をいとわず子どもをも戦場に立たせるリガ・ミリティアのやり方を真っ向から非難したのも彼女だ。
しかし戦争は、この潔癖な少女をも大きく歪めてしまう。

空襲で故郷を焼け出され、両親とも生き別れてしまったカテジナは、ゆきがかりで同行したリガ・ミリティアの理念にも賛同できずにひとり苛立っていたところをザンスカール軍の青年士官に拾われる。
誘拐という形ではあったが、天涯孤独となった彼女にとってまさに運命の出会い。
他人と共にあっても満たされず常に孤独を感じていたカテジナが初めてめぐり会った優しい年上の男、それがクロノクル中尉だった。
この出会いが彼女の世界を変えてゆくのに、若い二人が親密な関係になるのに時間はかからなかった。
クロノクルは軍人でありながら人のいい生真面目な男で、捕虜として連れ帰ったカテジナに対しても常に紳士的な態度で接した。
女王の弟という難しい立場ゆえに周囲からは半ば疎まれてもいたが、持ち前の聡明さとモビルスーツパイロットとしての優秀さとで死線を潜り抜けてゆく。
いつしかクロノクルの隣には彼の副官となったカテジナの姿があった。

 …というのが大まかなあらすじで、紆余曲折を経てウッソとカテジナは戦場で再会を果たす。
敵対する者同士として、何度も邂逅する。
彼女が敵となったことを信じたくないウッソは「おかしいですよ、カテジナさん!」と訴えつづけ、そんなウッソが気に障るカテジナはこれでもかというくらい執拗にウッソをつけ狙う。
ここが物語の肝となっている部分で、とにかく両者のいうことやることなすことことごとく“噛み合っていない”のだ。
逃げて否定するウッソ、追って拒絶するカテジナ
二人はいびつに執着しあう。

カテジナはなぜあれほど忌み嫌っていた戦争に自ら加担するにいたったのか。
彼女はおそらく居場所を探していた。
家の二階の窓から外を眺めていた頃から、お嬢様以外の何者かになりたかったのだ。
誰かに必要とされたかった。求められ愛されたかった。
すべてを失ってたまたま連れていかれた場所には、優しい大人の男とマリア主義という崇高な思想と美しいマシンがあった。
生まれてから今日まで欲してやまなかったものをいっぺんに与えてくれたのがクロノクルだった。
クロノクルもまた女王の弟として、軍人として個人としての立場のあいだで孤軍奮闘する男であった。
互いに共感しあえるところがあったのだろう。
かくしてカテジナは軍人という与えられた目の前の役割を演じることにのめり込む。
彼女が時折うそぶく思想めいた言葉は、出来の悪いスピーチのように実感がこもっておらず薄っぺらいのだ。

一方で、ウッソにぶつける言葉には苛烈なまでの感情がこもる。
「いちいちこれ見よがしに強くなって現れる…可愛くないのよ!」
あまりに稚拙すぎて聞いているこちらとしても「なんだそりゃ」なのだが、当の本人の目は本気で血走っている。
後にウッソは「あなたの弱さがカテジナさんを変えてしまった」とクロノクルを責めたてるが、カテジナを最も追いつめたのは他ならぬウッソである。
「あなたは家の二階で物思いにふけったり、盗み撮りする僕をバカにしていればよかったんです」とウッソは初恋の君に訴える。
ウッソにとってのカテジナは“憧れのお嬢様”でしかなく、彼女を自分の理想という型枠に押し込めるばかり。
いまの自分を否定されればされるほどに反発するカテジナ
しかしカテジナもまた、自分がされているのと同じようにクロノクルを追いつめているのだった。
誠実ではあるが木を見て森を見ないところがあり、優秀ではあるが野心もほどほどの男…
いつしかカテジナの心中には恋い慕ったはずのクロノクルを侮る気持ちが芽生えていた。
己が選んだ男は、いつまでたってもウッソを出し抜けない。
ならば自分も共に、というわけだ。
「そそっかしさではなく真の強さを見せてほしいのに」とカテジナは嘆く。
彼女の求める強さとはなんだろうか。弱さとはなんだろうか。
想い合う三人は、まるで不毛な殴り合いをしているようだ。

クロノクルの過ちは、カテジナを戦争に荷担させたこと。
「クロノクルは私に優しかったんだ!」とカテジナは吐露するが、本当に優しい男は恋人をモビルスーツなんかに乗せはしまい。たとえ彼女が望んだことだとしても。
ウッソとの一騎打ちに敗れ、コクピットから身を投げ出された彼がいまわの際に見たものは恋人の姿ではなく、先に逝った姉の幻影であった。
彼が闘う理由とは、女王の弟としての野望ではなく、傀儡の女王として利用され続けた姉マリアを救うこと、救えなかった姉を利用した人間への復讐だったのかもしれない。
執念でウッソとカテジナには劣ったのだ。
それこそが彼の甘さという名の優しさでもあったのだろう。
「マリア姉さん、助けてよ」
彼の最期の言葉が望んだとおり、差し出された手を最愛の姉はとってくれたと思いたい。

ウッソの過ちは、子どもの純真さゆえカテジナに自分が思う理想を押しつけ、目の前の生身の彼女を否定し続けたこと。
男と女が、人間と人間が解り合うことは難しい。
最後の戦いのあと、脇腹にナイフを突き刺された際に洩らした「まったく…」に続くのはおそらく、「あなたって人は…」であり、さらに続くならば「そういう人だったんですね」となるのではないか。
かつて憧れた“ウーイッグのお嬢様”ではない、今現実に目の前にいるカテジナをウッソがようやく認めた瞬間だったのだと脳内補完している。
それが永久の訣別の時になるとは、なんとも虚しい。

カテジナの過ちは…
なんだろうか。
あえて言うなれば、狂気の役どころから降りなかったことだろうか。
シャクティから「おかしいですよ!」と真っ向から指摘されたとき、彼女は「とうにおかしくなっている!」と即答した。
本当におかしくなった人間は、おかしいですよと言われてそうですおかしいんですなんて言わない。
正気のまま狂気を演じ抜いたカテジナ
そうでもしなければ自分を保てなかったのだろう。そして二度と引き返せなくなった。
「クロノクル、白いヤツを手向けにしてやる。そしたら…」
私もすぐにそっちへ逝く。
言葉は途切れたが、カテジナは先に逝った恋人に殉じる道を選び、全てをうしなった。
潔癖なプライドが彼女を奮い立たせもし、壊しもしたのだった。

ウッソとシャクティは、カテジナを許したのだと思う。
脇腹を刺されながらも、それ以上責めはしなかったウッソ。
月日が流れ、季節がめぐり、雪の降る中ひとりウーイッグの街を目指す彼女を彼女と気づかぬふりをして、多くを語らずに送り出したシャクティ
二人にとってのカテジナは、最初から最後まで“道に迷った旅人”だったのだろう。
全てとともに光をもうしなったカテジナは、それでもなお生かされ続けている。
そして、なお生きるために、生まれ育った地へと帰ってゆくのだった…。

この物語が発表された時くしくも私はウッソと同年代だったのだが、縁あって再会し、大人の視点で触れることができた。
あの当時こんなとんでもない物語が子ども向けアニメとしてテレビで放送されていた、ということに二十数年越しの驚きを禁じ得ない。
すさまじいエネルギーにただただ圧倒され、「機動戦士Vガンダムとはなんだったのか?」と振り返ってみると、“女の情念”という言葉が最もしっくりきた。
すべてを疎み拒絶しながらも、愛を求め、人に執着し続けたカテジナ
この物語の主人公はウッソ・エヴィンだが、この物語は故郷を焼け出された少女が再び故郷へと帰るまでの闘いの記録でもある。

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アップトゥデイト優勝! 縁と絆の結晶

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装い新たに、悩める前障害王者がパドックに姿をあらわした。
鮮やかな水色地に赤いラインのバンテージ。
ある日突然オーナーの名義が変わって驚きと動揺を覚えたが、馬もひともなんら変わらずリラックスして周回する様子にホッと胸をなでおろした。
きっと何か浅からぬ事情があったのに違いないのだろうが、外にいるファンが詮索し言葉にすべきことではない。
だから応援幕は何度も迷ったすえ作り替えはせず、黄色と黒の勝負服と芦毛をイメージした従来のものを張り出した。
人馬の様子に、そのことを許された気がした。
いつでもどこでも彼は彼、年齢を重ねても若々しくて変わらない。
この日はむしろ以前よりもはつらつとして見えた。
勝手知ったる阪神の庭がそうさせるのかもしれない。

630日。
アップトゥデイトが勝利から遠ざかっていた日数である。
並みいるライバルたちをねじ伏せ最優秀障害馬の称号をほしいままにした中山大障害から実に1年と9か月。
大きな不調や故障こそなかったものの、自身の細かな脚部不安や鞍上の負傷にともなう乗り替わり、現王者オジュウチョウサンを筆頭とした好敵手たちとの激戦…
アップトゥデイトは常に厳しい闘いとともにあった。
彼自身に衰えはない。
ただ、二年連続で誕生した強すぎる障害王たちの存在が間違いなくハードル界のレベルを底上げしていた。

いつのときも、どんな存在でも、勝負に完勝することは一番難しい。
出走すればオッズは1倍台、いわゆる銀行レースという言いまわしがあるが、勝って当たり前の馬なんて本当はどこにもいないのだ。
どの陣営も薄氷を踏むような綿密にして繊細な過程を経て日々の鍛錬を積み重ね、レースに臨む。
みんな頑張っている。きっと我々の想像をはるかに超えるほどに。
鍛錬と勝利を繰り返すことでいつしかアップトゥデイトは2着、3着では許されない馬となった。
高みへと昇っていったことの証に、今度は追われるようになったのだ。

私は信じていた。
アップは衰えた、ピークを過ぎた、勝ちきれない。
そんな声を聴くたびに、
違う、悔しい、アップ見返してやれ! と拳を握りしめ奥歯をかみしめた。
彼に勝利の感覚を思い出してほしかった。
しかし、悔しいのは私で、馬自身が悔しさや勝利への執念を糧に走るわけではないということも理解していた。
私が抱く想いは擬人化であり、ファンとしてのエゴでもあった。
そういう語り口は好きだ。でも決して押しつけたくはなかった。
真に願うのは無事と最善。過程の先の結果を受け入れるだけ。
ひとが勝ちたいと願い、馬はひとと夢を乗せて本能で走り、ひとが最後の一押しを手助けする。
ひとが馬を信じ、馬がひとの信頼に応える。
すべてがかみ合ったその先にあるのが勝利の栄光だ。
結果が欲しかった。彼らならもう一度掴めると信じて疑わなかった。

未明から断続的に降る雨でほどよく荒れた馬場を味方につけた。
ハナに立つと集中力を欠く恐れがあるので番手が理想。
指揮官のコメントとは裏腹に、彼らは打って出た。
行く馬がいないと見るや先頭に立ち、危なげない飛越と地力とで6頭の精鋭たちをリードした。
レースも終盤、3角でミヤジタイガの奇襲にあっても彼らの呼吸に乱れはなかった。
互いに信頼しあい、全身全霊で駆け抜けたその先に待ち望んだ栄光があった。

勝者を迎え入れたウイナーズ・サークルが笑顔であふれかえっていた。
かつて見た、懐かしい、しかしこれまでで一番嬉しい光景だった。
長い長いトンネルを抜けた先にある光。
たくさんの人々から雨とともに祝福を受けたアップトゥデイトは、まるで人々と一緒に喜んでいるかのように見えた。
彼にはきっとわかっているのだ。
喜びを分かち合う彼らは、確かに心が通じ合っていた。

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厳密にいえば、これは復活劇ではない。
彼らは一度も沈んでなどいなかったのだから。
ただそれでも、勝つことだけは難しい。
馬もひとも、レースでさえも生き物なのだから。
当たり前ではない。届きそうで遠くて、厳しくて難しい。だからこそ欲する。
研鑽を積んで何度でも挑む。そのさまが美しいのだ。

アップトゥデイトを管理する佐々木晶三調教師は、渇望してやまなかった阪神障害タイトルで節目の500勝を飾った。
くしくも400勝目を贈ったのもアップトゥデイトだった。
そのとき新馬戦の鞍上にいたのは、かつて厩舎の主戦をつとめた佐藤哲三騎手。
2017年阪神ジャンプステークスが行われた9月16日は、さかのぼること三年前、同ジョッキーが長い闘病生活を経て引退を表明した日でもあった。
この勝利は馬とひと、ひととひとの縁と絆が結ばれあった先に成就した奇跡でもあったのだ。