うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

オジュウチョウサンとアップトゥデイト、二頭の名馬について

新旧王者が揃って青い枠におさまった。
この瞬間、伝説は約束された。
前々で対象をぴったりとマークし、自ら仕掛けて獲物をしとめるオジュウチョウサン
悠々と先行してスタミナで押し切るアップトゥデイト
隣り合った彼らがすんなりとゲートを出たらどうなるかは火を見るより明らかだ。
アップトゥデイト陣営は、勝ちにいく競馬をすると高らかに逃げ宣言をした。
ハイペースを望むならば自分たちが作ればいい。
はじめから影も踏ませぬところまで突き放せばいい。
一か八か、大敗覚悟の、一世一代の大勝負。
宣言通りに彼らは大障害コースを単騎で駆けた。
このうえなく勇敢ですさまじい、見惚れるほどに美しい逃亡劇だった。

迎え撃つオジュウチョウサンは、ゴール板を解っているのだという。
いわゆる名馬と呼ばれるような優れた馬は、己が何者で、自分が何を成すべきかを理解している。
しかし、はかったようにゴール前で差し切られたとは、この日に限ってはどうしても思いたくなかった。
オジュウチョウサンは慌てていたからだ。
飛越のあとの着地で二、三度つんのめるような動作を見せ、そのたびにねじふせるように立て直し、遙か彼方をゆく白い影を懸命に追った。
来るなら来い、やれるものならやってみろよと大逃げを打つアップトゥデイトに、虎視眈々と追走していたはずの彼は極限まで追いつめられた。
前王者が死守せんと抗い、現王者が猛然と食らいついた。
昨年は9馬身差。
気の遠くなるような、残酷なまでの力の差が再び拮抗した。
わずか半馬身差で雌雄が決した。
障害レースという枠内だけにとどまらぬ、競馬史上に残る名勝負誕生の瞬間だった。

f:id:satoe1981:20171224145722j:plain

生涯のライバルとの死闘を終えて無事に帰還した人馬を、佐々木調教師と同助手は満面の笑顔で出迎えた。
興奮の最中にあるのか、敗れたことが解っているのか、アップトゥデイトは時おり首を上下に振って何かを訴えかけるような仕草を見せていた。
私には、彼らが無事を喜び、健闘を讃え、安堵し、ねぎらいあっているように見えた。
馬と人のあいだに明確な言葉は存在しないのかもしれないが、通い合う感情が彼らのあいだにはある。
一点の曇りもない。
悔いなく戦い抜いた男たちの表情は、この日の空のように晴れやかだった。
すべて報われたのだ。
この光景を見に来た。
ここに来てよかった。
その瞬間、喜びとも悔しさともつかぬ、なんとも形容しがたかった感情に名前がついた。
ふと耳を傾けてみると、場内の拍手と感嘆の声がまだ鳴りやまない。
ここにいる誰もが心をつき動かされ、酔いしれ、熱狂し、魅せられていた。
ようやくその中のひとりとなって私もむせび泣いた。

アップトゥデイトは時代を間違えて生まれてきたのではない。
主戦ジョッキーの言葉をいちファンが打ち消してしまうのはおこがましいことだろうか。
確かに、そう思って悔しがった時期もあった。
オジュウチョウサンのいない時代に生を受けていれば、アップトゥデイトはたぐいまれなる強者として障害界に君臨しつづけていたのかもしれないと。
一度頂点を極めたからこそ、一度打ち負かした相手に敵わないことがなおさらに悔しかった。
今は私情ではなく障害ファン、競馬ファンとしてオジュウチョウサンに惹かれ敬う気持ちがあるからこそ、彼を凌駕する存在がいずれあらわれてほしいと願う。
その存在は願わくばアップトゥデイトであってほしい。
二頭の名馬はともに時代に選ばれ、時代に愛された。
彼らはいずれ永遠に語り継がれる存在となる。なるべくして伝説となったのだ。

王者たちの戦いはつづく。
ゴールの瞬間に新たなスタートは切られていた。
オジュウチョウサン陣営は国内での記録挑戦に、アップトゥデイト陣営は今回の競馬に磨きをかけて“打倒オジュウ”にさらなる意欲を燃やす。
その間にも新星たちが次なる王者となるべく勝ち上がり、力を蓄えてくるだろう。
ハードル界の未来を予期させる素晴らしい中山大障害だった。

愛することは、許すこと

来週末、応援幕を出しにいく。
確実にパドックに張りたいから開門前に間に合うよう現地には前日発の高速バスで向かう。
好きなもののためにがんばるのは楽しい。
成し遂げるために毎回かなり力を出してがんばっている。
我ながら強いこだわりだと思う。
よくやってるなとも思う。
だから時々怖くなる。淋しくなる。
いつかしたいようにできなくなる時がきて、したいようにできなかった自分を許せなくなる時がくるのかもしれないなぁと。
おそらくそう遠くない。いつかは、いつの日か必ずおとずれる。
いまこんなにも好きで幸せなのに、いつの時からか、夢が終わるいつかを意識するようになっていた。

好きなものがあって、好きなもののために行動できることは、人生における無上の喜びだ。
趣味は生きる活力となる。好きは心の糧となる。
生きることとは生活だ。
自分以外の人や社会とかかわって、自らの役割をこなしながら、服を着てご飯を食べて家に住む。
その中でしたいこと全てを選びとるのは難しい時も出てくる。
日々の暮らしに追われて気持ちが上向かないこともある。
たとえ厳しい状況にあったとしても、真面目で情の深い人ほど懸命に力をふり絞ろうとするだろう。
好きなことで疲れや苦痛は感じにくい。充足感は確かに得られるからだ。
だから時にはキャパシティ以上にがんばれる。
が、自分以外の何かのために自らが生きることを犠牲にすれば、いずれ帳尻が合わなくなってくる。
仮にその時は100%以上の力で何とかやりとげられたとしても、次もまた同じようにがんばらなければと必要以上に義務感を背負ってしまうかもしれない。
がんばれなかった時に自分自身を責めさいなんでしまうかもしれない。
がんばるって何だろう?好きってなんだろう?
いつまでもトップスピードで走り続けられる馬などいない。
わたしたちはそのことをとてもよく知っている。

年をとるごとに、社会的な役割が増えるごとに、がんばれることはゆるやかに減っていく。
楽しみたいはずなのに、好きなことを楽しむ気力がわかない時もある。
私の場合はもちろん大好きな競馬だ。
まだみぬ世界をこの目で見たい。
応援する人馬のがんばりを見届けたい。
いまは、いましかない。
でも、私も、私しかいない。
馬も人もレースも一期一会だけれども、私の心と身体もいまの一瞬をもがきながら生きている。
だから愛するものと同じように自らをも大切にしなければならない。
もって生まれた心と身体で何かを愛したり、打ち込んだり、喜びを感じたりするのだから、自分が壊れてしまってはせっかくめぐりあえた楽しいものも楽しめなくなるからだ。
それは何よりも悲しい。
好きなことを好きに選んで生きていくのと同じように、時にはがんばれなくなる自分自身をも受け入れて許すこと。
自分以外の何かを愛することは、自分自身を知り、認め、許すことでもある。

私は年をとった。
がんばれることは数年前よりも減ってしまったのかもしれない。これからも減っていくのかもしれない。
そのかわりにいまは、若く無知だったころとは全く違う景色が見えている。
年をとることは経験を重ねることだ。
経験を重ねて人は成長する。
自分以外の何かを愛し、自分自身をも許せる人はきっと、どんな時も悔いのない選択ができるはずだ。
そういう強い人間に、生涯をかけて、私はなっていきたい。

蕾の桜に夢を見て

サウンドキアラが阪神ジュベナイルフィリーズを除外された。
勝馬は9頭が駒をすすめることができる抽選で、まさか確率12分の3のほうにふり分けられるとは。
しかし4頭に1頭。決して低い数字ではない。
出られるものと信じて、夢を想い描いて、ひとりで舞いあがっていただけに、いざ否とつきつけられてしまうとショックが大きかった。
この落胆は、見たいと望んだものがひとまず見られなくなってしまった淋しさだ。
サウンドバリアーショウリュウムーンがいた2010年桜花賞をもう一度見なおしたくて、私はひとりで勝手に焦っていたのかもしれない。

彼女たちが競馬場にいた頃の私は無知だった。
競馬の何たるかも知らずに。
一勝の重みもわからずに。
馬のそばにいる人たちのことも、彼らの献身も当たり前のことと思い。
他人の気持ちも推し量れずに、夢や浪漫という甘い言葉を大義名分に厳しい挑戦を望み、好きな騎手の勝ち星となってほしいがために馬を応援した。
あのときのまっすぐな感情に嘘はない。
まっすぐだったのは己の欲望だ。
何も知らないままに、ただただ無我夢中だった。
彼女たちを愛していたのは本当だったけれども、限りなく利己的で、自分のための愛に近かったように思う。
たったひとりの世界で、幸せで自分勝手な夢をひたすら見つづけていた。
見るべきものも見えないままに。

敬愛してやまなかった元ジョッキーがかつての相棒たちをいとおしそうに語るたびに、私は応援していた馬たちに謝ってまわりたい気持ちになる。
人間のために馬に声援を送っていたあの頃の、無知で無我夢中ゆえの視野の狭さを申し訳なかったと。
悔いてなどいない。ただ思わずにはいられない。
競馬と出会って十年が過ぎたいまならば分かることがあって、もっと違う愛しかたができたのに。
見えなかった、知らなかったものの中にこそ宝はあったのにと。
過ぎゆく時の流れの中で私にとっての競馬はもはや、たったひとりの世界だけではなくなっていった。
まず馬がいて、周りに人がいて、馬と人、人と人とが共にいる。それが私にとっての競馬だ。
たったひとりだけではなく、自分以外の、想う相手の、誰かのために祈り願うことが山のようにある。
夢から覚めて愛情のかたちが変わったのだ。

サウンドキアラはサウンドバリアーの娘だけれども、サウンドバリアーではない。
コーディエライトも同じ厩舎の管理馬ではあるけれども、ショウリュウムーンではない。
しかし幾多の縁を今日まで大切につなぎつづけてきたからこそ、こうして夢のつづきに想いを馳せられる。
もう、あの頃ではない。いまとこれからが無限にある。
ひとまず違う道をゆくこととなった彼女たちの未来が光り輝くように。
願わくば桜の下に集えるように。
無事と最善を祈りながら、蕾が花ひらく夢を見る。

 

f:id:satoe1981:20171209232905j:plain

 

わたしはあなたの言葉が聞きたい

ツイートがちょっとバズった。
とはいえ何千何万の大きい話ではなく、いいねリツイートあわせて数百の微々たるものだ。
趣味と日常を細々と綴っているだけにすぎない個人アカウントにはありえない反響だったので、「なんでこれが」「あたりまえのことを普通に言っているだけなのに」「同じことなら競馬の文章か写真で反応されたいものだなぁ」と小心者は唸りつつ、黙ってなりゆきを見守っていた。

ジェンダーの問題はよく“燃える”と思い知らされた。
“一方的に好意を抱いて距離を詰めてくる男性に恐怖を感じてしまう女性”の体験と心情を綴った連作漫画への共感と、漫画への一部の反応に対する率直な感想だ。
(『私は男性が怖い』は正真正銘“バズった”漫画なので検索をかけたらすぐに出てくるかと)
誰にとっても“我がこと”なだけに、自らの性別ゆえに誰しもが多かれ少なかれ抑圧され、胸の内にくすぶる想いを抱え込んでいるのだろう。
さてどんなひとが読んでくれたのかしらといくらかホームをたどってみると、たくさんのリツイートをタイムラインに並べてはいても、何かに真剣に怒ったり嘆いたり悩んだりはしていても、自分の言葉で意見を述べているひとがあまりいないように感じられた。それが少し淋しかった。
つぶやきを通じてすれ違ったひとがどんなことを考え感じているのかを知りたかったのだ。
ところがホームを通して伝わってきたのは漠然とした負のモヤモヤだった。
たまたま流れてきた私の言葉を借りて何かを否定批判したり、誰かを攻撃するための武器として使っているのなら嫌だなとも思ったが、おかしなことを言ったつもりは毛頭なかったのでツイートは取り消さなかった。
言及も補完もしないでおいた。
何百の反応があった中で嫌な絡みは一通もこなかったので、自分の言葉にも判断にも過ちはなかったと信じたい。
いいねリツイートは他意のない共感だったのだろう。
そうなのだ。あたりまえのことにこそひとは共感したり、安堵を覚えたりするのだ。
数日経てば通知は鳴りやんだ。

議論なり提唱なり主義主張なり、確固たる信念があるのならば、なおさら自分の言葉でやるべきじゃないのかな。
常々そう思ってはいるけれど、自分の想いを言いあらわすすべを持たない、やりかたを知らない、伝え慣れていないひとは案外多いのかもしれない。
想いを言葉で伝えるというのは、想像するよりずっと難しくてハードルが高い行為なのかもしれない。
私だとて、いつまでたっても未熟者だ。
拙いながらも一生懸命に考えて、心の内から生まれた名無しの感情にひとつひとつ言葉を当てはめて形にしていっているだけにすぎない。
形にするまではぼんやりただようだけの感情の集合体。
持て余したモヤモヤは、そのまま吐露するにはあまりにも頼りなくとりとめがない。
だからこそ書く。形を与える。名前をつける。命を吹き込む。
私はそうやって自らと向き合ってきた。ひとと関わってきた。
書くことは生きる力にもなりうる。

ただ願っている。
書く場所を選んだのなら、書くことを怖がらないでほしいと。
気持ちを察してとか、黙っていても分かりあえるとか、人間の良心や深謀遠慮をありがたがるようにひとは信じようとするけれど、想いや考えはやはり言葉にしなければ伝わらない。
リツイートも、ネットスラングも、スタンプも、コラージュも面白いけれど。
いまの時代、的確に伝えるツールはそこかしこにあふれているけれど。
整然とした手ざわりのいい型枠にはとても収まりきらない想いも、生きていれば何かしらある。
時にはもっと自分の内なる想いの力を信じる瞬間があってもいいのだ。
ひとにものを伝えることは素晴らしい。ひとの想いを受けとることも素晴らしい。
だから、言葉にすることに億劫にならないでほしい。
自ら発したものを、たとえば「駄文ですが」と必要以上に貶したり、恥じたり、茶化したり、濁したりするのももったいない。
誠実な言葉には魂が宿る。
ひとはそれを言霊と呼ぶ。

怒ってるんじゃなくて。嘆いてるんじゃなくて。
否定批判じゃなくて。悲しいのでもない。そんな大げさな話でもなくて。
ただ、このごろ少し淋しいから、誰にとはなしに願っている。
「わたしはあなたの言葉が聞きたい」と。

愛と情熱と、年齢とモチベーションのお話

東京ハイジャンプ秋華賞、買えないときにかぎってピタリと予想が当たる。
「まあいっかぁ」と苦笑いしてしまった時点で、私はもう馬券をたしなむ競馬ファンとしては終わりに向かって歩いているのかもしれない。
「絶対に走る」と見込んでいたグッドスカイとディアドラが結果を出したことは嬉しかった。
でも、当の私自身は力が出ないのだ。このところずっと。
「もういや」ではないし、「もういいや」でもない。
「もういいか」と「もういいのかな」のあいだを行ったりきたりしながら、どうにかつながりを保ちつづけている。

ふり返れば競馬とはかれこれ十年のつきあいだ。
ひとつ知ればまだ知らないこと、知りたいことが次から次へとあふれ出して、知れば知るほど好きになった。のめり込んだ。
いつしか競馬は暮らしの中にさえ溶け込んで、季節や概念そのもののようになっていた。
敬愛できるジョッキーと出会えた。
最愛の馬とも出会えた。
彼らとの出会いが、ほどなく競馬を趣味の域を越えた特別なものへと変えていった。

人馬を大切に想うがゆえゲームに興じられなくなった。
キズナをかわいいと思ったから引退を決めた」とは佐藤哲三元騎手が現役を退いた際の名言だが、氏のそれとはまた似て非なる感情だ。
競走馬と彼らに携わる人々を敬愛するあまり、私の中で競馬が神聖なものになりすぎたのだ。
気軽に思ったこと感じたことが言えなくなったり、他人の冗談を許せなくなったり、レース結果を茶化せなくなったり。
夢中になればなるほどに言えない、できないことが増えて、自由をなくし、自らに課した重みで身動きがとれなくなった。
そんな中で、ついに愛する存在を競馬の中から失った。
馬にも人にも私自身にも、等しく時間は流れるのだった。

以前のように競馬に対して情熱を注げなくなっていることに気がついた。
愛は変わらずありつづけるのに、応援している馬や人は他にもいるというのに、目的や意義は山ほどあるというのに。
決して気づきたくない事実だった。
薄々感づきながらも懸命にごまかしつづけていた真意がまとわりついて離れなくなった。
エネルギッシュになれない己自身に幻滅し、これまで抱いてきた愛への裏切りにさえ思えて、熱意を維持しようと足掻けば足掻くほどに心がすり減っていった。
つらかった。
まだこんなにも愛しているのに、愛に偽りは微塵もないのに、どうしてこんなにもはっきりと終わりが見えてきてしまうのか。
それでもなお競馬からは離れられない月日の流れの中で、やがてひとつの結論にたどり着いた。

人は年をとる。
年をとるということは、考え方や生き方が変わること。
年相応に成長するということだ。
好きなものとの関わり方、想い方も変わってゆくだろう。
好きなもの自体が変わることだってある。
年齢、環境、自分自身。
年月の移ろいとともにすべてが少しずつ変化してゆく中で、数えきれないほどのいろいろな取捨選択をしながら、人は生きてゆく。
趣味とは人が人らしく生きてゆくための活力であり、人生における彩りだ。
だからこだわりつづける。あるときは人生そのもののように。
強すぎるこだわりはいずれ執着となる。
過ぎた執着は人を苦しめる。愛したものであればあるほどに。
いつしか私は趣味にのめり込むあまり、愛したものたちに依存し、自ら成長することを拒みつづけていたのだった。
もういい加減で大人にならなければ。ひとつ成長するときがきたのだ。
しかし、大人になることとは、愛したものを捨てることとは違う。
そのことにようやく気づけたのだ。
だからもう大丈夫だと。

若かったころ、愛とは無限のものだと信じていた。
愛さえあれば情熱は永遠に注ぎつづけられる、愛が無限に情熱を与えてくれるのだと信じて疑わなかった。
好きな人馬との別れを幾度となく繰り返すうちに、すべての物事には必ず始まりと終わりがあることを学んだ。
己の気持ちを偽ったり無理をしつづけているうちに、いずれ愛はすり減るし、情熱も涸れる。
疲れ果てて嫌にすらなるかもしれない。
そうならないためにはどうすればいいのか。
愛と情熱も有限で、終わりが存在する。
大切なのは終わり方、休み方なのだ。
情熱とは元気な自分自身の心の奥底から生まれる。
無理やりに愛をつなぎとめるために絞り出した偽りの情熱は、やがて執着となって心身を蝕む。
まずは自分自身が健やかでなければ、好きなものを楽しむための力はわいてこないのだ。
楽しめるときは楽しむ。楽しめないときはゆっくり休む。
自らの気持ちに抗わない。想いを偽らない。
たとえ一度夢中になって取り組んだものから離れることになったとしても、心の片隅に愛する気持ちが残っていれば、ふたたび眠っていた情熱に灯をともせる日もくるだろう。
だって人生は長い。人間は強い。
愛と情熱は有限ではあるが、時と場合に応じて充電だってできるのだ。

私は今も競馬と関わりつづけている。
情熱から熱のほとんどが引いて、愛と情が残った状態で。
時折は競馬場へ行き、写真を撮り、ささやかな馬券を買い、現地へ行かない日もそれとなく競馬のことを考える。
考えないときも増えたけれど、関心の範囲は間違いなく狭まったけれど、やはり季節や概念のように当たり前にそこにある。
明日の天皇賞を迎えれば競馬歴はいよいよ十年に到達する。
好きで応援している人馬との縁が今日まで私をこの世界に引き留めさせた。
しかし、なおも踏みとどまるのは間違いなく私自身の意志でだ。十一年目もそうなるだろう。
これを情熱と呼ばずして何というだろう。
私はやはり競馬が好きだ。
これを愛と呼ばずして何というだろう。

明日も雨の中、彼らに会いに競馬場へ行く。