うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

天馬に挑む

言葉をうしなった。

すべての人馬が無事に完走できてよかった。
ようやく絞り出した声が細く震えていた。
そうだ、よかったのだ。
よかったんだ、ものすごい名勝負をまたも見届けられたのだから。
世紀の瞬間に立ちあえたのだから。
生ける伝説をまのあたりにしているのだから。
にもかかわらず、私は何も言えず、動くことさえできずにいる。
すごい。強い。敵わない。化け物だ。
あとほかに何をどう漏らしただろうか。
圧倒的な力の前に言葉は無力だった。

アップトゥデイトは戦った。
懸命に足掻きつづけた。
敵はやすやすと逃がしてはくれない。
年末と同じ轍は踏むまいと、あるいは、お前のことはいつでも仕留められるんだぞといわんばかりにぴったりと背後をとられつづけた。
逸ったマイネルクロップと時おり擦れるほどに馬体を合わせながら、息もつまるような緊迫感のなか時計の針は進んだ。
唯一の必勝策とかかげたセーフティリードがまったくとれない。
本来ならば大逃げのペースだ。
それでも食らいついてくる。
逃げられない。引き離せない。
相手は潰れない。着実に追いつめられていく。
いったい、なぜ。
いったい、何なのだ、この馬は。
最後の直線を待たずして大勢が決した。
もはや競りかけるものも、追いすがれるものさえも存在しない。
自らが切り拓いた勝利への道をひたすらにつき進む。
彼がゆく道は覇道だ。
絶対王者オジュウチョウサン
新たなる伝説誕生の瞬間に私がおぼえた感情は、絶望に限りなく近い畏怖だった。

昨年の中山大障害の再現を。
ハードル界に一大ムーブメントを起こし、競馬史に残る名勝負と絶賛されたあのレースをもう一度。
齢8歳にしてなお成長と進化を遂げるアップトゥデイトが、障害レース2000回騎乗達成を区切りに引退を表明している林満明騎手とともに臨む最後のグランプリ。
舞台装置はすべてそろっていた。
最高の競馬でふたたび雌雄を決すときが来たのだと、未曽有の熱を帯びながら大いに中山は盛りあがった。
現・王者の君臨か。それとも前・王者の復権か。
私は彼らの勝利を信じて疑わなかった。
陣営とて想いは同じだったはずだ。
立場は違えども多くの人間がひとつの光景を思い描いていたに違いない。

夢は無情にも打ち砕かれた。
ここまでやっても、足元にも及ばないのか。
もはや逃げることすらかなわないのか。
おぼえたのは畏怖と、ではこれからどうすればいいのかという、とりとめもつかない無力感だった。
勝者を祝福し、人馬の無事と完走を喜ぶ気持ちに嘘偽りは微塵もないのに、私は何も言えずにただ固まっている。
どよめきと歓声と拍手の鳴りやまない夢にまで見た中山で、いいしれぬもどかしさと苦しさのあまりじっと歯を食いしばっている。
泣くまいとしていたのではない。
泣いてしまいたかった。
悔しいと吐露しながら声をあげて泣きたかった。
想いとは裏腹に、涙はほんの少し滲むのみにとどまった。
悔しい。
勝てなかった。敵わなかった。またも夢破れた。
いや違う、思い描いたシーンを観ることができなかったと落胆をおぼえた自分自身の心を、なによりも恥じたのだ。
見初めた人馬に自らの理想を重ねあわせ、夢を見て、想いを馳せて。
愛すべきものたちが築きあげたすべてのうえに成り立った結果に無力だなどと、絶望だなどと、いったい何様なのか。
ずっと応援してきた私が現実を受け入れられなくて、どうする。

アップトゥデイトは強くなった。
自身が叩き出したレコードをも大きく塗りかえる渾身の競馬だった。
ただ、その遥か彼方をオジュウチョウサンは走っていた。
それだけのことで、それがすべてだ。
「負かすのは今回しかないと思っていたけど、向こうも進化しているんだね。」と佐々木晶三調教師が、「これで騎手を辞められる。未練も何もなくなった。」と林満明騎手が、異口同音に脱帽と応えた。
死力を尽くしたからこそ口にすることの許される重みのある言葉だった。
すべてはオジュウチョウサンのために。
だからこそ執念を糧に、ひたむきに強くなれたのだ。

「もう負けないと思います。勝利が永遠に続くと信じています。」表彰台にあがった石神深一騎手は心の底から相棒を誇り、胸を張った。
天馬とはきっとこういう馬をさすのだろう。
はじめて神をあらわす言葉で競走馬を称えたいと思った。
彼と対峙しつづけながら、「生まれた時代が悪かった」と飽きるほど耳にした。
もしもオジュウチョウサンがいなければアップトゥデイトはたぐいまれなる天才ジャンパーとして障害界に君臨しつづけていられたのにと。
何ものを貶める意味合いもない、他愛もない、切なるタラレバ。
だが、違うのだ。少なくとも、私にとっては。
生涯最高のライバルの衰えを待ち望むような馬では、陣営では、アップトゥデイトは決してないのだ。
そうせざるを得ないのならばあまりに悔しい。
今日でさえ完膚なきまでにねじ伏せられてなお勝利を諦めたくないと願うのは、彼らに対して酷な想いなのかもしれない。
しかし。それでも。

彼らはきっと、これからも挑みつづける。
だから、私も絶対に諦めない。

 

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誰がための競馬

「このごろ、競馬がつまらない。」
「大レースになるとこれまで乗ってきた主戦騎手を降ろして、外国人ジョッキーに乗り替わりばっかりで」
「この馬にこの騎手この陣営、という昔ながらの情や絆が希薄になってしまった。」
確かに、そうかもしれない。
勝つための鞍上交代はもはやありふれた戦略となった。
それを悔しいな、淋しいな、なんかやだなとモヤモヤするのは競馬ファンとしてはごく自然な感情だ。
一方で、比較されるようにこういう声も聞く。
「だから、乗り替わりのない障害はおもしろい。」
果たして、そうだろうか?
比べることだろうか?
どちらかを上げて下げることだろうか?
今の競馬がつまらないのは、障害レースがおもしろいのは、本当にそれだけが理由だろうか?

平地競走と比較される障害競走にもシビアなスライドは発生する。
アポロマーベリックのもともとの主戦は草野太郎騎手だったし、西谷誠騎手と北沢伸也騎手とで乗鞍を分かちあったレッドキングダムの例もある。
今をときめく王者オジュウチョウサンの障害デビュー時に手綱をとったのは大江原圭騎手で、本格化する以前ということもあり勝利とはほど遠い結果だった。
障害レースに目に見えた意図を感じさせる乗り替わりが起こりにくいのは、単に乗り役が慢性的に不足しているからだろう。
もちろん一頭の馬に人が物理的、精神的に深く携わる特性によるところも大きい。
ひとりの障害ジョッキーが厩舎陣営の理解と協力を得ながら、まっさらな状態の競走馬を自分仕様のジャンパーへ作りあげていく。
これこそが障害レースの醍醐味だ。
だから「障害はおもしろい」。
だから「今の平地はつまらない」のだろうか?
平地の競走馬だって、多くの人間がかかわった調教過程を経てレースに臨んでいる。
なにより、もとはといえば障害馬だって平地のレースを走ってきた。
どちらも同じ競馬で、同じ競走馬だ。

未勝利戦を脱すること。
ひとつでも上の条件へと勝ちあがること。
競走馬が目指すべき道は常に険しい。
しかしジョッキーが勝ちたいと願い、実際に勝てる瞬間と、馬が走るタイミングが必ずしも一致するとは限らない。
人馬のピークが重なり合ったまま共に歩めることがベストとはいえ、現実的にはどちらにも期限がある。
人間のスランプは一時。
競走馬にとっては、同じ時間が一生を左右しかねない重く長い年月となる。
限られた時間の中で陣営は試行錯誤をしながら、できる限りの最善を尽くす。
芝からダートへの路線変更を試みる。
入障という可能性に懸けてみる。
距離を延ばしてみる。あるいは短縮してみる。
調教の内容を見直してみる。
思い切って放牧に出す。連闘してみる…
それら限られた選択肢の中にひとつに、鞍上がある。
上位騎手で見てみるのも、腕っぷしの強い地方出身騎手を乗せてみるのも、トップクラスの外国人ジョッキーを頼ってみるのも、これまでコンビを組み調教をつけてきた相棒に引き続き任せてみるのも、すべてが賭けであり可能性だ。
誰を乗せるかは、競走馬の所有者であるオーナーを含めた陣営の方針による。
それが大レースを勝ち負けしようというスターホースならばなおのこと。

競馬とは馬が主役の、馬と人、人と人との共同作業だ。
数々の降板劇の大半は、必ずしも失敗の恨みつらみから起こっているわけではない。
とはいえあからさまになってきたのは、幾多の失敗と成功の積み重ねが一本の道となり、ゆくべき道が整い、競馬がビジネスとして成り立つようになったためだろう。
夢を見るのはタダだけど、夢を叶えるためには金がいる。努力と工夫もいる。
オーナーも陣営も出資者も、もちろんファンや馬券購入者も、誰しもが例外ではない。
金銭と労力をなげうつからには、成果と見返りを求める。
できるだけ損をしたくない。あわよくば得をしたい。
商いの根幹が今の競馬にもある。その筋道ができてきた。
先人が築きあげてきた叡智と努力の結晶だ。
勝つための乗り替わり。
古き良き昔からも存在する流れではあったが、今のこの時代、人間も価値観も、環境も時流も大きく変わった。
一頭の馬を勝たせるために忌憚ない意見を交わせるようになったということだろう。
人間が変わらなければ進歩はない。
革新なき文化の未来は決して明るくはない。
われらが競馬は、どうだろう?

ジョッキーは花形の職業だ。
日向で脚光を浴びる者がいれば、日陰となり主役を支える者も存在する。
最近でいえばキタサンブラック武豊騎手と黒岩悠騎手、テイエムジンソクの古川吉洋騎手と竹之下智昭騎手の関係性がまさにそれだろう。
しかしこの世界に携わる誰もが馬と人と日々真摯に向き合い、誇りをもって競馬に取り組んでいることをわたしたちは知っている。
競馬は幾多の信頼なくしては成り立たないスポーツだからだ。
華やかな表舞台のみならずバックヤードを精力的に報じる機関が増え、ファンが知りうる情報は格段に増えた。
きっと、だからこそ、わたしたちは悔しいのだ。
すべては、人が人を好きだから。
この気持ちは何ものにも否定されるべき感情ではない。
でも、数多の苦悩と決断を繰り返しながら闘いつづける者たちを否定すべきでもない。
彼らは終わりなき挑戦者だ。
負けたのは戦ったから。失敗したのは挑んだから。
たとえ賞賛される結果でなかったとしても、数えきれない失敗と敗北の積み重ねこそがやがて掴む勝利への糧となってゆく。
夢、金、信念、行動。
すべてを懸けられる陣営がより栄光へと近づける。
わたしたちも、愛すべき彼らにかけている。
共に戦うことはできないが、それぞれ形は違えども、同じ夢を見ている。

馬が勝てばみんなが幸せ。
一番幸せなのは馬でなければならない。
馬にとっての幸せとはなんだろうか?
それは、生きることにほかならないのではないか。
馬にとって、生きることとは勝つことだ。
生き延びること。勝ちあがること。
『勝たせたい』は『生かしたい』。馬への人の切なる愛だ。

春ですね。ちょっと休んでみませんか。

世界はこんなにも輝いているのに、心が少しも弾まない。
なんとなく身体が重たくて、何をするにも億劫になる。
いつもどおり学校や仕事へ行って、用事をぜんぶ片づけてさあ趣味の時間!と段取りつけても、なんだかパワーがわいてこない。
こんなにも好きなのに。楽しいはずなのに。
目の前の景色はまぶしいくらいに明るいのに。
それは、心が風邪を引いているからなのかも。
春先ってあったかい日もあれば肌寒い日もあって、何を着てどう過ごせばいいのかわからないときが結構多い。
大丈夫だよ~といいながらがんばってたら、なんだかいつのまにか疲れがたまってたなぁ、なんて。

もしかして、昨年末からずっとがんばりっぱなしじゃないですか。
寒いうちから春へ向けて、あんまりゆっくりできてなかったのではないですか。
風邪を引いたら食欲はなくなるし、がんばって食べても好きなものの味もろくにわからないし、頭も体もぼんやりとして気持ちが集中できなくなる。
風邪は万病のもとというけれど、こじらせると長いし、後を引く。
体のほうが元通り元気になっても、なんとはなしに気持ちが晴れないのは、無理して取り組んでいたときのしんどさを引きずって、好きなことさえも純粋に楽しめなくなるからなのかも。

そうなってしまう前に、ちょっとだけ、お休みしてみませんか。
好きだから続けてること、好きなことに付随するちょっとした義務めいたもの、そういういつもなら楽しくできるはずのものが負担に感じてしまう前に。
両手をいっぱいにふさいで重たくなってきた荷物を、いったんその場で降ろしてみませんか。
休むのって、ものすごく勇気がいること。
好きで続けてきたのだから当たり前。
好きだからがんばってこられた。
でも、誰かに押しつけられてるわけじゃない。頼まれてるわけでもない。
観なきゃ、行かなきゃ、撮らなきゃ、書かなきゃ、描かなきゃ、創らなきゃ、つぶやかなきゃ。
人それぞれがんばってることっていろいろあると思うけれど、やらなければいけないことって、本当はぜんぶ自分で自分に言い聞かせてること。
自分を一番楽にできるのは自分自身。
休んでみて、ひと息ついて、落ち着いてみると見えてくるものもある。
意欲って、そういうふとしたときにわいてくるのではないでしょうか。

情熱は、花の種

春のおとずれと中山グランドジャンプの開催が待ちどおしい今日このごろ、今か今かと待ち焦がれながら思い出されるのはやはりあのレース。
あの時あの場所にいた誰もが熱狂し、感極まり、惜しみない賞賛の声を贈った名勝負はいまだ記憶に新しい。
2017年度、中山大障害
新旧王者、オジュウチョウサンアップトゥデイトの競演はたくさんのひとの心の中に種をまいた。
ありったけの情熱と興味の種を、わたしたちは彼らから贈られて競馬場から帰ってきた。

種は土に埋まり、芽を出し、苗となる。
苗は葉をつけ、茎を伸ばし、花を咲かせる。
まかれた種がどんな土に根を張り、どんな水と栄養を与えられ、どんな草花になるかはたどり着いた環境による。
すくすくと成長するのかもしれない。
ゆっくりと大きくなるのかもしれない。
小さくともたくましいのかもしれない。
それとも種のまま生涯を終えるのかもしれないし、いったんは芽吹いたもののぴたりと成長が止まるかもしれない。
長い月日を経てある日突然思い出したかのように命を吹き返すことだってありうる。
受けとった種をどのように育てるか。
ひとりひとりが心の中に異なる土と水をたたえている。
価値観という名の土壌だ。
それぞれが、とりどりに違う。

ふってわいた新しい物事とどう向き合うのか。
性格だったり、タイミングだったり、心身の準備の有無だったり、さまざまな事情や考えかたが深くかかわってくる。
きっかけが、勇気が、思い切りが必要な場合だってある。
あるひとは、真っ白な芦毛の馬を見て「そういえば」と思い出すのかもしれない。
またあるひとは、厩舎トレードマークの水色メンコの馬を見かけて野趣あふれる走りを連想するのかもしれない。
いつもはお昼ご飯を食べる時間だけど、このあいだ観たジャンプG1の、これから発走する未勝利戦もちょっと観てみようかな。
中にはそんなひともきっといるだろう。
いつ思い立つのか。いつ動くのか。
いつ種に水をやるのか。
決める自由はいつだって自分の心の中にある。

新しい花を育てることは、きっとなかなか難しい。
誰だってはじめは勝手が分からずに、ひとりきりで、これでいいのかなと戸惑いながら、おそるおそる水をやる。
そんな時、もしも周りに誰かがいたならば。
ふかふかに肥えた土を分けてもらえるかもしれない。
育て方の助言をちょっともらえるかもしれない。
そうすれば初めての挑戦がもっと楽しいものとなる。
まだみぬ新しい世界がより輝いて見えるはず。
もしもわたしたちがちょっとした先駆者ならば。
知っていることは惜しみなく、請われたら手助けし、問われたら答え、相手の気持ちとペースを一番に尊重して。
芽を摘むのではなく、無理やり間引くのでもなく、育ちが遅いねと指摘するのでもなく。
こうしたらちゃんと早く育つんだ!と横やりを入れることもせず。
さりげなく寄り添って、あるいはつかず離れずでもかまわない。
目の前にいるこれからのひとが自分と同じものを見て、何を思い感じ考え、どんな花を育てていくのかを心待ちにできたならば。
これまで見えていた世界がより明るく感じられるはず。

知ってもらえる嬉しさ。
好きなものを共有できる喜び。
想いや知識をとともに育んでゆく楽しさ。
ひとりきりでは味わいがたい感動を、あの時あの場所でわたしたちは贈られたはずだ。
だから、あの熱狂と興奮を分かち合っていた誰かと、いつかもう一度同じ道で再会できると気長に信じてもいいと思うのだ。
種はみんなに等しくまかれているのだから。

出会いに出遅れなんてない

タップダンスシチーの競走時代を、私は見られなかった。
引退したずっとあとに知り、リアルタイムで得られなかった記憶の空白を埋めるように幾多の英雄譚を手繰り寄せつづけてきた。
やがて想いが天に通じ、金鯱賞三連覇を成し遂げた中京競馬場で対面を果たすことができた。
ひと目で惹かれた。
思い描いていたとおりに我の強い好漢だった。
大出遅れだったなぁとあらためて悔やんだ。
もっと早くに出会いたかった。

どんな相手にも常に真剣勝負を挑んできた稀代の名コンビ“タップと哲三”の戦いは、十数年の歳月が過ぎ人馬ともに現役を退いた今も語り草となっている。
ことに女傑ファインモーションに奇襲をしかけた有馬記念
周知のとおり、あの騎乗には賛否両論があった。
自ら勝ちにいく、大本命を負かしにいく勝負師のレースだと絶賛する声もあれば、人気馬潰し、自分勝手にレースを壊した、といった否定的な意見も多く挙がった。
しかしジョッキーは「自分たちから馬券を買ってくれているファンもいる」とレースを終えたあとも決して信念を覆すことはなかった。
現に二着入選という結果を叩き出していたのだから誰も文句は言えまい。
今もどこかで誰かがあのエピソードを語るたびに、気持ちがぐらぐらとたかぶってくる。
凪いでいた感情がたったひとつの波紋で未だこんなにも波打つ。
知る者を羨むような、同好の士を慕う仲間意識のような、ともすれば嫉妬にも近く、あるいは後ろめたさのような。
私はその熱い談義に混ざることはできない。
当時の彼らを語れるだけの感情を、持ち合わせていないからだ。

オールドファンが過去の名馬を語るときに帯びる熱、神聖なものへ向ける眼差しをまぶしく見あげながらもいくらかの畏れさえ感じてしまうのは、自分が競馬の中で築いてきた歴史がまだまだ浅いからだろうか。
人も馬もレースも生き物だ。
時の流れにより常に変化してゆく。
だから競馬は面白い。そして儚い。
あとから結果を把握することはできても、時機を逃せばもう決して後戻りはできなくなる。
緊張、熱気、はりつめた空気、あらゆる喜怒哀楽、回顧、世論。
一瞬の中に封じ込められた永遠。
感情だけが当時を知らない。
知識やデータからほぼ正確な全貌を推しはかれたとしても、一番肝心な手触りがない。実感がない。
私がともに築けなかった歴史。
その最たるものが、敬愛した騎手の相棒との勇姿。
好きなのに、ずっと切なかった。
私は“タップを知らない哲三ファン”だ。

得られなかった記憶を惜しみ、得られたならばと羨みつづけてきた。
競馬を愛する者ならきっと誰もが一度は通る道だ。
見たかった、知りたかった、出会いたかったは愛するがゆえ。
しかし“知らない自分”をあまりにも後ろめたく感じ、振り向いては悔やみつづけることは、あとにつづくこれからの同志をも否定し拒むことにつながりはしないだろうか。
好きなもののすべてを知る必要はない。何もかもを知ることはできない。
知り得ないからこそなおさらに惹かれる想いもある。
少しの淋しさとそれゆえの強い憧れを抱きながら、今とこれからを知ってゆける、愛してゆける。
そういう幸せもあるはずだ。

歴史はきっと、自分の目と手で創ってゆく。
想いが芽生えた瞬間こそがすべてのはじまり。
今まさに私の目の前を、出会えた彼らが、未来の名馬たちが走っているのだから。