うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

願いを口にする力

願いを真っすぐにぶつけられるのがうらやましい。
たくさんの期待と不安が胸の中に渦巻いていて、ありとあらゆる言葉が喉につっかえているというのに、私は何も言えないでままでいる。
レースのことを考えるとざわつくけれど、人馬と陣営を想う気持ちのほうは凪いでいる。
前向きなあきらめに、しんと心が静まり返って、こんな夜には自分の熱のあり方を問い直してみる。
願いを真っすぐな言葉にしてぶつけられることが、今はとてもうらやましい。

私にも、受け入れがたいことに真っ向から怒っていたときがあった。
敬愛してやまない騎手が愛駒を駆っていたころだ。
心を引き裂く別れがいくつかあった。
そのたびに嫌だ、こんな理不尽なことがまかり通るなんて、こんな競馬なんて、と若かった私は全力で泣いて嘆いて悔しがった。
でもどうにもならなくて、最後には受け入れるしかなかった。
オーナーサイドの意向で乗り替わったショウリュウムーンデボネアも、怪我で乗れなくなったエスポワールシチーキズナもみんな、無事と最善を願い、心を込めて応援した。
苦い気持ちは残るが、嘘も後悔もない。

どうにもならないことは、前向きにあきらめる。
率直に思い感じたことを時間をかけて考えて、昇華して、納得する。
そうして自分の中に現実として赦し受け入れる。
これが競馬なんだと。
私はひとりのファンに過ぎないんだと。
馬のことを一番に考えているのも、同じ時間を過ごしているのも、苦楽をともにするのも、私ではなく馬の傍にいるひとたちなんだと。
その彼らがもっともっと長い時間をかけて考えて、経験を活かして、試行錯誤をして、導きだした結論だ。
これ以上、誰が何を言えよう。
もちろん願いを真っすぐ口にすることはファンの権利でもある。醍醐味であり、文化でもある。
ただ、私自身が、自分ひとりの願いを口にするには競馬を、競馬にたずさわる人馬を好きになりすぎてしまっただけのこと。
この心のあり方が、どこかで誰かを責めさいなんでいないことを願う。
何かを想い考え感じるのは自由なのだから。
人の想いに、人が想うことに、何かを想う人に、他人が横から口を出す権利はない。
人の数だけ、想いや感じ方、考え方があって当たり前なのだから。

十数年、繰り返してきた。
葛藤や困惑、反発を乗り越えて、たくさんのことを赦し受け入れてきた。
やがてそれらが喜びとなり、糧となった。
受け入れがたいときは口を噤んできた。
噤みすぎているのかもしれない、と今は思う。
本当はもっと口に出してぶつけたい願いがあるのではないかと。
時には願いを口にする力を解き放ってもいいのではないかと。
ふと自分の競馬に対する価値観の潔癖さが、自由と権利とのあいだでせめぎあっているように感じる。
だから時折うらやましくなるのだ。

ひとりの人間にも、いくつかの立場がある。
競馬ファンとしての私。
障害レースが好きな私。
アップトゥデイトを応援している私。
オジュウチョウサンに惹かれる私。
それぞれの立場で、何かを強く願っている。
明日はいよいよ、それらを打ち明けてみようと思う。

さらば、レジェンド

彼はいつのときも勇敢だった。
外で見ているだけのわたしの目にその感情は見えなかった。
しかし終わりを目前にして、彼は率直な言葉で自身の胸の内を語ってくれた。
「乗るのが怖くなった」と。
これまでのインタビューの中でもしんどかった、つらかったことも包み隠さずに語りつづけてきた林満明騎手はカウントダウンのさなか、自らの胸中に芽生えた感情をうち明けた。

障害騎手は毎レースごとに恐れを克服しなければならない。
飛びに行くのが、怖くないわけがないのだ。
もちろん、誰であれ戦場がどこであれ、馬に乗ることに恐れはつきものだろう。
しかし恐れに支配されていてはいけないのだろう。
馬に携わるひとが異口同音に語る楽しさや充実感とはきっと、恐れを克服したさきにある世界のものなのだ。
彼もまた強靭な精神力で毎レースごとに闘い、己にうち克ち、幾つもの喜びと栄光を手にしてきた。
その最たるものがアップトゥデイトとの日々だ。
引退を周囲にほのめかしすらしていたとき、縁につぐ縁によってめぐり合い、人馬一体となった彼らはついに春秋中山J・G1連覇を成し遂げた。
乗り手の勇敢な攻めの騎乗が馬の無尽蔵のスタミナを引き出し、名馬と名手のコンビがここに誕生したのだ。
障害騎手林満明なくして、最優秀障害馬アップトゥデイトはなかった。
その彼が、これからも走りつづけるであろう相棒の鞍からも降りるという。
競馬へ行くには、馬に乗るには、恐れぬ心が必要。
だがアップトゥデイトとともに夢を叶えた彼は落馬負傷によって恐れを抱くようになった。
己との闘いが多くを占めるようになったのだろう。
すべては、全身全霊で戦うからこその葛藤に違いなかった。

自らの退き際を悟ったジョッキーは、残された闘志を燃やし尽くすかのごとく戦いつづけた。
文字どおり、勇気を振り絞りながらの鬼気迫る闘いぶりだった。
そして今日、障害リーディングジョッキーとして、胸を張って引退する。
肩で息をしながら、満身創痍で、最後の瞬間まで全力で戦い抜いて、ターフを去っていく。そのさまも、いかにも彼らしい。
2000回もの葛藤を乗り越えたさきにある世界は、彼の目にどう映っただろうか。
「ホッとした。」
きっと、この一言にすべてが集約されている。

わたしたちは幸せ者だ。
このうえない有終の美を、決して短くはない月日をかけて、興奮や熱狂ともに見守ることができたのだから。
これからも障害レースを応援してほしいと、たくさんの相棒や仲間たちとともに障害レースを盛り上げつづけてきた稀代の立役者は微笑む。
飛ぶ馬の美しさに魅せられたジョッキーは、いまようやく戦いの日々を終えて、次の世代に夢と希望を託して鞭を置く。
さらば、レジェンド。

 

f:id:satoe1981:20180623222735j:plain

 

『馬が好き』の内訳

ひとことではいいあらわせない。

もともと私は騎手応援メインの人間だったが、敬愛する唯一無二の方が現役を退いてからは競馬との向き合いかたが変わった。
人と馬がいる、だったのが、馬がいて人々がいる、になった。
馬の傍には陰に日向にたくさんの人がいる。
ジョッキーのような華々しい存在だけでなく、生産者、育成、オーナー、厩舎陣営、などなど…
競馬の主役は馬。
たくさんの人々に送り出される競走馬は、いわば愛と情熱、技術と叡智の結晶だ。

馬への愛は、相手に見返りを求めない愛である。
競馬の世界では見返り=払い戻しだが、金だけがすべてではないのだ。
期待をこめて馬券を買うものの、基本的にその金は馬と自分自身の信じる気持ちへとなげうったもの。
寺山修司風にいえば“財布の底をはたいて自分を買っている”。
ファンが馬と邂逅できる唯一の場所が競馬場(ひとによってはそれ以外の場所にも伝手はあるのかもしれないが、大多数にとっては、という意味で)。
そこは馬にとっての晴れ舞台、ピカピカに磨きあげられて馬は輝き、人は馬に信頼を寄せる。
柵を隔てて見ている自分も、彼らを信じている。
信頼を形にあらわしたい。態度で示したい。
一緒に戦いたい。苦楽を分かち合いたい。
その気持ちを具現化する手段のひとつが、馬券だ。
真剣にレースを予想するのとはちょっと違う意味合いの投票を私にさせる馬が、いるのだ。

馬は自分を見つめ返してはくれないし(ごくまれに目が合うことはある)(と思いたいだけ)、馬とは触れ合うことはできないし(誘導馬ならお出迎えのときに鼻面を撫でることはできる)、馬とはデートできないし(何を言ってるんだ)、決して自分のものにはならない存在だ。
でも、なんか、そんなんじゃないのだ。全然。
自分のものにしたいわけじゃない。
自分の思ったようにどうにかなってほしいわけでもない。
厳しい調教にたえてレースに出走している!○○号すごい!えらい!! に尽きるのだ。
無事に回ってきてくれればいい、一目見られればそれでいい、元気でいてくれればいい、ただいてくれればいい…
綺麗事なのかもしれない。
強者を決する競走としては矛盾しているのかもしれない。
でも、縁あって見初めた馬が人に愛されて、幸せで、安らかであってほしい。
願わくば、また会いたい。
その繰り返しだ。

ファンは見えている部分しか見えないから、見えない部分は断片的な知識や見聞、想像に頼るしかない。
それが偏ってしまってはいけないし、強く想うがゆえに願望を押しつけることになってもまずい。
だから、ただただ遠くから見守って、無事と最善を祈る。
○○号が好きという感情はもしかしたら、○○号の実際の姿、つきつめれば馬という生き物の実態を身近に知らないがゆえの思い込みなのかもしれない。
夢や縁を見いだしながら、当事者にとってはまったく見当違いのことを言っているのかもしれないと、近頃はふと思うことがある。
私が競馬場で見て受けとっているものは綺麗な上澄みなんだろう。
それも真実のひとつだ。
自覚は必要だと思っているが、卑下もしない。
彼らの競馬へ向かう姿を見て感じたときめきに嘘偽りはないのだから。
知らないから、知りたい。
見える精一杯のなかで、見ていたいのだ。

ごめんなさい、夢を見させてもらってます。
応援させてくださいね。
好きなんです。いとおしいんです。
今はこういう気持ち。

どこへいくのか障害レース2018

いつまでつづいてくれるだろう。
オジュウチョウサン無双に端を発した障害レースへの注目は。
いま競馬場の来場ポイントプレゼントには彼のゼッケンタオルとクリアファイルが、ターフィーショップには生垣つきの勇ましくも愛らしいぬいぐるみが並ぶ。
史上初にして空前絶後のブームといっていい。
そのオジュウチョウサンが先日、平地競走への挑戦を明言したことは記憶に新しい。
実際にどうなるかは見てみなければわからないが、動揺しているファンも多いと思われる。

障害レースが置かれている現状をこれだけ淡々と、理路整然とあらわしている記事は稀有だ。
ファンの誰もが認めながらも言葉にしづらい、美点で曖昧にしてしまいたい痛いところを的確にとらえている。
そうなのだ。
オジュウチョウサンというスターホースがあらわれても、障害レースを見る外からの目がいくらか増えても、あいかわらず未勝利戦とオープン戦は原則的に第三場で行われているし、現場は慢性的な騎手不足にあえいでいる。
番組や人材の問題は今日明日に解決する問題ではないが、さりとて何か少しでも変わったのか?と問われれば、あんまり変わっていないのだろうなぁというのが本当のところ。
そんな事実を再認識させられて、いまとても楽しいはずなのに、“この先”のあるかなきかを憂える気持ちがにわかに大きくなってしまった。
オジュウチョウサンらは、障害レースは、これからどこへいくのか。

生きとし生けるものは、みんな平等に年をとる。
理解とノウハウを持ち、騎乗依頼をする調教師も。
名手と呼ばれるジョッキーも。
歴戦の名馬たちも。
そして、冬の時代をともに乗り越えてきた障害レースを愛するファンたちも。
みんなこのままいつまでもずっと、というわけにはいかないのだ。
では、いまわたしたちには何ができるだろうかと考えたとき、個人ができることはほんの微々たるものだと思い知る。
行けるときに現地へ行って、買えるときに馬券を買う。
直接的には、これだけ。
ブログを書いたり、写真を撮ったり、応援幕を張ったりは、精神的な活動だ。
外からファンを育てるにはこれら“美点の力”がものをいう。
この盛りあがりが、のちのちの隆盛と再生の火種となってゆくだろう。

しかし胴元を動かすにはやはり目に見える成果と数字が要る。
いまだけでなく、一過性のブームで終わらぬよう。
あとにつづくものを育て、築きあげなければならない。
番組構成を考えるとか、長期的なスパンで人材を確保し育成するとか、戦略的に前面に売り出していくとか、そういう根本的なことは中の人にしかできないのだ。
外から見ているファンの力には限界がある。悔しいが。
だから、いまグッズを作ってくれたりしているのは好意だろうか、今後の動向を期待してもいいのだろうかと、わたしたちは中の人の一挙手一投足に注目している。

力になりたい。
力を貸してほしい。
障害レースの存続と発展のために。
どこへいくのかじゃない、いいところへいきたいのだ!

オジュウチョウサンの新たなる挑戦について

もうすでにお聞き及びだろう。
障害界の絶対王者オジュウチョウサン武豊騎手を背に平地競走の開成山特別への出走を予定している。


オジュウチョウサンといえば既存の障害馬らしからぬ、まるで肉食獣が獲物を狙うかのような野趣あふれる走りが魅力のひとつ。
「いま平地走ってもそこそこやれるんじゃないの」とは期待を込めて囁かれていたこととはいえ、これまで陣営は国内の障害戦でのさらなる記録更新を名言していたので、まさか今になってという思いだった。

いま平地競走?
開成山特別ということは、凱旋レースともなる来月の東京ジャンプステークスは回避?
主戦の石神深一騎手ではなく?
この挑戦の先には何がある?
と。

障害馬が平地を叩く例そのものは近年だとルールプロスパーやアポロマーベリックらもとっていた戦略で別段珍しいことでもないのだが、オジュウチョウサンにとってこれは前哨戦ではなく、以降も平地競走を使っていくための権利とりの一戦だというのだ。
そのためにオーナーたっての希望で武豊騎手を配したという。
これだけの名馬との挑戦に、名手とて胸躍るのも当然といえば当然だ。
目指すは平地の大レース。
陣営が見据える先にあるものは、G1だ。

挑戦は、成功と失敗の可能性を同時にはらむ。
私は障害ファンとして、平地競走に挑んだオジュウチョウサンにジャンプレースではないステージで土がついてしまう姿を想像したくないのだろう。
異例の戦いによって、これまで培ってきたジャンパーとしての本来のリズムが乱れてしまうかもしれない。
精神的にもなんらかの影響を及ぼすかもしれない。
絶対王者としてのオジュウチョウサンを失うかもしれないのが、とても恐ろしい。
しかし。
競馬ファンとしては見てみたいし、この挑戦を肯定したい気もしているのだ。
 
ワクワクしているひとは期待をすればいい、しかしながら挑戦のすべてを必ずしも讃えなければならないわけではない。
いろいろな声があがってしかるべき。私は静観しよう。
一報を受けた直後はそう考えていた。
ほどなく公開された会見の中で、この挑戦はオーナーの意向であることが明らかになった。
『平地の走りを見てみたい。』その先にあるのは重賞、G1。
では、さらにその先には。
オジュウチョウサン種牡馬にしたい。』
その夢は、障害競走を愛するファンの悲願でもある。
かねてより語られていた夢へ向かって、夢を現実のものとするために、重く難しく厳しいであろう一歩を今まさに踏み出そうとしているのだ。
オジュウチョウサンを一番に想い、オジュウチョウサンを一番によく知る彼らが、オジュウチョウサンのためにもっとも時間をかけて、対話を重ねて導き出した結論だ。
石神騎手が跨がらぬことも熟慮に熟慮を重ねてのことなのだろう。
一枚岩だった陣営のこと、ないがしろにしての降板では決してないはずだ。
なぜなら、私たちはずっと見てきた。
だから。
「でも通用しなかったら、また戻ってきて障害に専念すればいいんだから」とは軽々しく言いたくなくなった。
現実的にそうなることも可能性のひとつではあるが、始まる前から終わることを考えるのは、否定ではないだろうかと。

彼らは本気だ。
ひたむきに夢を追う者は強く美しい。
人馬の健闘を心より祈る。競馬ファンとして。障害ファンとして。

 

f:id:satoe1981:20180523212200j:plain