うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

変化を受け入れて、新たな境地へ

これを余裕とみるのか、辛勝とみるのか。
歓喜にわくウイナーズサークルには元主戦の林満明騎手の姿があった。
その隣で、アップトゥデイトを勝利に導いた白浜雄造騎手が晴れやかな笑顔を浮かべていた。

「大事に乗りすぎてしまった。」
一戦目に挑んだ阪神スプリングジャンプを、白羽の矢を立てられたピンチヒッターはこう回顧した。
新たな主戦として臨んだ小倉サマージャンプでは「勝ちたい気持ちが空回ってしまった」と。
障害重賞20勝目に王手をかける名手は人知れず苦しんでいた。

慎重になりすぎている。
もっとアップを信じてもいいのに。
もっと思いっきり攻めても大丈夫なのに。
新たな相棒への期待と並行して、結果がともなわぬ悔しさともどかしさが確かにあった。
全盛期の姿が鮮烈であればあるほどファンはかつてのイメージにとらわれるが、馬は歳をとりながら、調教や実戦を経てたえず変わっていく。
そして白浜騎手は、林騎手にはなれない。
どちらかがより秀でているとか、敵わないとか、及ばないという意味では決してなく。
まったく同じ競馬を再現することはできないのだ。
競馬を愛するひとの中に、それを望むものが果たしているだろうか。
人は自分以外の誰かにはなれない。
強くなるために、よりよい自分になるために、ひとり努力と工夫を重ねるだけだ。
馬と人は、ともに変化しつづけている。
そんな彼らが心を通わせるには。
自信を得るには。
互いに信頼しあうには、やはりともに戦って勝利を掴むこと。
私もまた知らぬ間に、最も強かったときのアップトゥデイトと林騎手のイメージを彼らに望みつづけていたのだ。
縁あって手綱をとったジョッキーとともに喜びを分かち合いたかった。
誰かの代わりではなく、これまでの続きでもなく、いま目の前にいる人馬とともに。

一人旅からはじまった決戦は直線あわや、新進気鋭ラヴアンドポップとのマッチレースで最高潮を迎える。
半馬身差の矜持。
三度目の正直が成った。

これは辛勝か、それとも貫禄の勝利か。
トップハンデを背負いながらも並ばれてからは抜かせなかった。
しかし昨年のように突き放すことはかなわなかった。
どちらの見方もできるだろう。
ただ、ひとつだけわかるのは、苦しみながら彼らはともに大きな一歩を踏みだした。
アップトゥデイトの馬名には、最新の、という意味がある。
変化を受け入れて、新たな境地を彼らは目指す。

 

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努力と勝利のお話

今年も“この時期”がやってくる。
3歳未勝利戦を見ていると、“努力と勝利の関係”について考え込まずにはいられない。
馬も人もみんな勝ち上がるためにがんばっている。
みんなが揃って勝ち上がることはできない。
席の関係上、がんばっても勝ち上がれない馬のほうが圧倒的に多い。
勝ち上がれる馬は、ほんの一握り。

それなりの年月をかけて、この世界で報われないことの意味と大きさを知ってしまった。
思い入れと現実とは、大体かけ離れているものだ。
どうかどうかあなたは報われてほしいと競馬の神様のようなものに毎週祈りながら、自分が戦っているわけでもないのに、なぜこんなに苦しいのかと自問自答する。
競馬を通して、勝ち上がった馬たちの、あるいは栄光を手にした人馬の、努力が報われるさまをずっと見てきた。
これからも見ようとしている。
だから苦しいんだろう。
努力が必ずしも望む形で報われるわけではない現実が。
ひとは時に報われない愛を抱くこともある。

努力とは、勝利を保証するものではなく、挑戦する権利を得るためのものなのかもしれないとこの頃は思う。
みんなが当たり前のように努力をしているその中から、突き抜けられる力の正体とはなんだろう。
最後の決め手はほんの少しの運だったり、タイミングだったりするのかもしれない。
そういう掴みうるすべてを掴むための、日々のがんばりなのだ。
一握りの勝者となるために。
だからこそ勝利は尊い
勝利を目指して己を高め、果敢に挑んだものたちもまた、同じく尊い
このことを私は絶対に忘れたくないし、たとえ苦しくとも、想い願い祈ることを諦めたくないのだ。

Going My Way

「こんなことって、またあるんだ。」
競馬に絶対はないといいながら、無意識のうちに願っていた。
ずっと見てきたのに、想像もつかない結末がまだまだたくさんある。

アップトゥデイトは三度目の小倉サマージャンプを二着で入線した。
懸念材料はいつだって終わってからようやく敗因として鮮明に浮きあがってくる。
スタートの課題と、より瞬発力勝負となる距離短縮と。
そのどちらともがうまくいかず、他馬との駆け引きに苦慮している間に抜群の立ち回りを見せたヨカグラがすべてにおいて圧倒した。
くしくも昨年の優勝馬ソロルと同じく、西谷誠騎手と中竹和也厩舎のコンビ。
先月の騎乗をもって現役を退いた林満明騎手が最後に勝ちあがらせた障害オープン馬。
清々しいまでの完敗だった。

「悔しいな。でもアップ、ときどきこういうことがあるから。」
阪神スプリングジャンプサナシオンに逃げ切られたときのことを思い出していた。
落馬負傷した主戦にかわり、白浜雄造騎手がはじめてアップトゥデイトの手綱をとったレースだった。
そのときも今回も、敗因のひとつに鞍上を挙げなければならなかったのだろうかと。
そもそもファンが抱く『悔しい』という感情とはいったいなんなのだろう。
彼らのために悔しいのか、それとも自分のために悔しいのか。
思い描いた結果とかけ離れてしまったから悔しいのだとしたら、後者なのだろう。
しかしわたしたちは、誰もが負けたくて負けているのではない、勝つために最善を尽くしても必ずしも報われるわけではないということを知っている。
だから前者でもあるのだ。

アップトゥデイトは障害レースにおいては最高の結果を求めてもいい、いや求められる立場にある馬だ。
でもそれだけが彼の生き様ではない。
たとえばライバル打倒のためだけに走っているのではないし、勝ち負けとは結果で、数えきれないほどのベターとベストを積み重ねたうえに成り立っている。
その中にはもちろん新たな主戦を抜擢した陣営の決断も含まれている。
目下の結果としてまずは黒星がついた。
これを今後どう活かすかを彼らはまた考え、実行する。競馬とはそのくり返しだ。

戦い終えて馬場から引きあげてきた勝者たちを、白浜騎手は悔しさをにじませながらも終始笑顔でたたえていた。
見るからに気持ちのさっぱりした潔いジョッキーだ。
実は私は彼のことをあまり知らない。
だからこれからアップトゥデイトとともに知っていきたい。
応援とは相手を、かかわる他者や世界を深く知ることでもある。
ずっと見ていてさえ初めて知ること、まだまだ知らないことがたくさんある。
そういう機微をできるかぎり、余すことなく見ていきたいのだ。

たぐいまれなる強者として、彼らは多くのひとに多くを願い望まれている。
しかし競馬とは自分たちの戦い、自分自身との闘いだ。
わたしたちもまた、オジュウチョウサンの、林騎手の存在をいつまでも見出し、比べつづけるのではなく。
勝利を当たり前のように求めるのでもなく。
あんまり結果に固執し過去にとらわれすぎると、まるで今とこれからの未来を減点方式で見てしまうようだ。
大切なことにあらためて気づかされた一戦だった。

名コンビになっていってほしい。
自分自身のために。自分たちの道を行きながら。
彼らにはそれができるはずだ。

 

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オジュウチョウサン、その夢のあとさき

「走ってほしくないなあ。アップトゥデイトとの対決を見たいから。」
先日現役を退いた林満明騎手の言葉をたくさんの記事の山から見つけたとき、これだと深くうなずいた。
アップトゥデイトが勝てないオジュウチョウサンって何者なんだ。
探し求めてやまない答えを、あらためて競馬の中で問うてみたいと思った。

障害レースにメイクデビューはない。
かわりに未勝利戦があるのみだ。
競走馬はほぼ例外なく平地競走からスタートを切る。
惜しくも勝ちあがれなかった馬や頭打ちとなった馬、その中でも素質や気性を見込まれた馬が、まずパートナーとともに横木を跨ぐところからハードル界に足を踏み入れる。
やがて頭角をあらわし、自信と実績を得た馬がかつて断念せざるを得なかったフィールドで再挑戦をする。
そんな道もあっていいはずだ。
それは決して今までたどってきた道を蔑ろにすることにはならない。
オジュウチョウサンほどこの挑戦にふさわしい馬はいない。
新天地でこれほど才能が開花し、未知の可能性を感じさせてくれた馬はいなかったのだから。
もっとも、彼が類い希なる才と強さの持ち主だからこそ、ありとあらゆる葛藤が渦巻いているのだけれども。

競馬における挑戦とは、ひとり胸の内に秘めていた夢を他者に打ち明けるところからはじまる。
閃きを得て、決意表明をして、模索をしながら、突き進む。
決断や過程が正しければ必ず結果が出るとは限らないし、逆に思わぬ成功をみることもある。
正解不正解でひとくちに語れるものでもない。
馬が自らの意志で選んで走るのではないから、周りにいる人間のありかたで真価が問われる。
その馬に関わるひとがどういうひとたちなのか。
オジュウチョウサンに携わるひとたちは、尊敬と信頼に値するプロのホースマンだ。
馬を愛してやまないオーナーと、信念をもった厩舎陣営。
そんな彼らが新たに夢を想い描くのは、いけないことだろうか。
夢を叶えるための覚悟をもった挑戦は、無謀な冒険なのだろうか。
険しい道となることは他ならぬ彼らが百も承知だろう。

戦場が変わっても、絶対王者の足音は力強いままだった。

競馬ファンとしては、心躍る挑戦にこのうえなく胸がたかぶった。
障害ファンとしては、稀代の障害王者を失うかもしれない恐れを抱かずにはいられなかった。
アップトゥデイトの応援者としては、生涯のライバルを失うかもしれない寂しさと、しかしこれも競馬だという達観があった。
ではオジュウチョウサンに惹かれる者としては、私は何を思えばいいのだろう。
開成山特別へのカウントダウンが切られたときから、そのことばかりをずっと考えつづけてきた。
ほどなく「今年は障害に戻すつもりはありません」と、勝利の興奮さめやらぬなかでオーナーサイドのコメントが目に飛び込んできた。
予期されていたひとつの未来が示唆された瞬間だった。
暮れの大障害コースで相棒の石神深一騎手とともに猛々しく躍動する姿を見られないことがほぼ確定的となり、想像していた以上につらい。
競馬ファンとして、障害ファンとして。
オジュウチョウサンに惹かれる者として。
そして、アップトゥデイトの応援者として。
すべての立場において、心の底から、口惜しい。

オジュウチョウサンと厩舎陣営の挑戦はこれからもつづく。
まだはじまったばかりだ。
具体的にどのような道をゆくかは明かされてはいないが、なんといっても馬も人もレースもみんな型枠にはまらない意志を持った生き物だから、途中で話が二転三転する可能性は大いにありうる。
今は安堵と高揚のなかで真っすぐに前だけを見据えていることが言葉の端々から伝わってくる。
しかし夢や信念が必ずしも真っすぐ叶えられるとは限らない。
最善を尽くしたとしても、思い描いたとおりのストーリーに仕上がるかどうかはわからない。
変えても変わってもいい。
そうすることは嘘つきでも、逃げでも、格好悪いことでもない。
たとえ曲げても曲がっても、当事者である彼らがよりよい選択を重ねていくだけだ。
ゆく先でふたたびハードルとまじわる道も、もしかしたらあるのかもしれない。
長年苦楽をともにしてきた人馬が邂逅する未来も、あるのかもしれない。
でも、だからといって「戻ってきてほしいから負けてほしい」とは、誰もなかなか思えるものではないだろう。
競馬を、競走馬を、愛することを知っているならば。
誰だって好きな馬にはがんばって勝ってほしいと願っている。
だからこそ、誰もが言葉にしがたい複雑な想いを胸にくすぶらせながらも、今日という日の挑戦を固唾をのんで見守った。
見守らずにはいられなかった。
おそらくこれからもずっと。

喜びも、寂しさも、驚きも、興奮も、疑問も、悔しさも。
オジュウチョウサンは私にすべてをもたらしてきた。
アップトゥデイト中山大障害連覇の夢を、問答無用の力で阻んできたあのときから。
どこへいくのか、どこまでいくのか。
彼はいったい何者なのか。
答えはきっと、すべてのレースが終わったあとにしかわからない。

 

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願いを口にする力

願いを真っすぐにぶつけられるのがうらやましい。
たくさんの期待と不安が胸の中に渦巻いていて、ありとあらゆる言葉が喉につっかえているというのに、私は何も言えないでままでいる。
レースのことを考えるとざわつくけれど、人馬と陣営を想う気持ちのほうは凪いでいる。
前向きなあきらめに、しんと心が静まり返って、こんな夜には自分の熱のあり方を問い直してみる。
願いを真っすぐな言葉にしてぶつけられることが、今はとてもうらやましい。

私にも、受け入れがたいことに真っ向から怒っていたときがあった。
敬愛してやまない騎手が愛駒を駆っていたころだ。
心を引き裂く別れがいくつかあった。
そのたびに嫌だ、こんな理不尽なことがまかり通るなんて、こんな競馬なんて、と若かった私は全力で泣いて嘆いて悔しがった。
でもどうにもならなくて、最後には受け入れるしかなかった。
オーナーサイドの意向で乗り替わったショウリュウムーンデボネアも、怪我で乗れなくなったエスポワールシチーキズナもみんな、無事と最善を願い、心を込めて応援した。
苦い気持ちは残るが、嘘も後悔もない。

どうにもならないことは、前向きにあきらめる。
率直に思い感じたことを時間をかけて考えて、昇華して、納得する。
そうして自分の中に現実として赦し受け入れる。
これが競馬なんだと。
私はひとりのファンに過ぎないんだと。
馬のことを一番に考えているのも、同じ時間を過ごしているのも、苦楽をともにするのも、私ではなく馬の傍にいるひとたちなんだと。
その彼らがもっともっと長い時間をかけて考えて、経験を活かして、試行錯誤をして、導きだした結論だ。
これ以上、誰が何を言えよう。
もちろん願いを真っすぐ口にすることはファンの権利でもある。醍醐味であり、文化でもある。
ただ、私自身が、自分ひとりの願いを口にするには競馬を、競馬にたずさわる人馬を好きになりすぎてしまっただけのこと。
この心のあり方が、どこかで誰かを責めさいなんでいないことを願う。
何かを想い考え感じるのは自由なのだから。
人の想いに、人が想うことに、何かを想う人に、他人が横から口を出す権利はない。
人の数だけ、想いや感じ方、考え方があって当たり前なのだから。

十数年、繰り返してきた。
葛藤や困惑、反発を乗り越えて、たくさんのことを赦し受け入れてきた。
やがてそれらが喜びとなり、糧となった。
受け入れがたいときは口を噤んできた。
噤みすぎているのかもしれない、と今は思う。
本当はもっと口に出してぶつけたい願いがあるのではないかと。
時には願いを口にする力を解き放ってもいいのではないかと。
ふと自分の競馬に対する価値観の潔癖さが、自由と権利とのあいだでせめぎあっているように感じる。
だから時折うらやましくなるのだ。

ひとりの人間にも、いくつかの立場がある。
競馬ファンとしての私。
障害レースが好きな私。
アップトゥデイトを応援している私。
オジュウチョウサンに惹かれる私。
それぞれの立場で、何かを強く願っている。
明日はいよいよ、それらを打ち明けてみようと思う。