うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

最愛の騎手の進退がもたらしたもの

報せから一年が経とうとしている。
彼が背を知る馬も順にターフを去ってゆき、その間にプロヴィナージュの初仔が入厩した。
ハービンジャー
名はコンゴウノカガヤキ。
子がデビューを果たすかどうかというころには思い出になっていることを願ったものの、想いはいっこうに昇華される様子がなかった。
まだ残るゆかりの馬や縁深い厩舎を見守る穏やかな日々がつづく。
今年はアップトゥデイトが中山と小倉へ連れて行ってくれた。
順調ならば秋の府中へも。
幸福と充実のさなかにありながらも私の心の目はいまだ過去を見つめていた。

「僕にはもう目標なんてないみたいなものだから」

と彼が笑ったのを聞いたとき、私は行く先を見失った。
きっともう、あんなにも燃えるような想いをすることは二度とないのだと。
ラジオにテレビにイベントにと、トレセンを出て社会へ出て、ひとと触れあい表現することをいとわない彼の表情はかつての勝負師の面差しからはどんどん遠ざかっていった。
知らなかったことを知るにつれて、見えなかったものが見えるにつれて、ひとつずつ、何かがなくなってゆく。
なくなってゆくのは、執着だろうか、関心だろうか、情熱だろうか。
なくすことは熱が冷めること、夢から覚めることで、終わりに近づく始まりだろうか。
いずれその先にあるものが終わりなのだろうか。
ありつづける限りのずっとを誓ったはずなのに、何かをなくし、何かが変わってゆく。
終わりを恐れるがゆえ、今とこれからを受け入れ応援していくと言い張りながらも、私は変わることを恐れつづけていた。

一方で彼は変わっていった。
言葉を惜しまず、心を開いて、自分の話をするようになった。
競馬を観る目は鋭いままに、馬や騎手を見る目は穏やかで優しくなった。
現役時代を語る言葉は客観的で、それでいて一抹の寂しさが見え隠れする。

あるときつぶやいた。

「本音を言うと、見ていてもの足りない。」

無我夢中で馬を追ったゴール前の接戦も、朝一番に鐙を踏んだときの「今日はいける!」という感覚も、身体をいじめ抜いてメンタルを鍛えた小倉の夏も、きっと彼の中では一生消えることのない手ごたえなのだろう。
外から競馬を見ながらそれらを思い起こし言葉にして伝えてゆくのは、もしかしたらとても辛い作業なのかもしれない。
外から観ていただけのファンでさえ。

「こんなにも競馬を愛しているひとがどうしてレースに乗れないんだ」

と、時折まだ胸を締めつけられる思いがするのに。
しかし、ほかならぬ彼が何歩も何十歩も何百歩も踏み出して変わろうとしてきたのだから、ほかならぬファンである私も想いを汲んで、勇気を出して変わろうとしなければならなかったのだ。
終わりを受け入れ、変化を認め、完結した過去の夢と憧れのつづきを今に求めない勇気を。

一世一代の大博打だった。
身銭を賭け、信念を懸け、夢を託してきた。
私のすべてをかけるに値する、唯一無二の名手だった。
遅れてきた最後の青春とともに、私の心の中に騎手佐藤哲三がいた。
かつていた。
ジョッキーとして。
引退式を見届けたあと、長く短かった最後の青春と、勝負師でありつづけた、騎手としての彼に別れを告げた。
それは始まりの瞬間でもあった。
もっと純粋に、もっと自由に、敬愛するひとと同じ目線、同じ立場で競馬を楽しむ権利が与えられたのだ。

人の心、愛情のかたちは年月や転機を経て変化する。
あの激しい情熱だったものは、戸惑いや悩み苦しみを得て昇華され、穏やかな慈愛へとようやくたどり着きつつある。
敬愛するからこそ変わらないもの、変わってゆくものと、変わらなければならない大切なものがある。
好きだった事実、想っていた時間、そうして応援して過ごしてきた年月と想いの質量は変わらずありつづけるだろう。
年齢を重ね、経験を積み、人生を楽しみながら新たなステージで挑戦をしつづける佐藤哲三さんは相も変わらず魅力的だ。
だから今も私の心の中にいる。
尊敬できる人間として。
きっと、これからもずっと。

競馬はつづいてゆく。
競馬がつづくかぎり、私のこの想いも思い出も色褪せない。