うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

応援幕に想いを込めて

競馬ファンを楽しく続けるにあたって。
私にとっての三大タブー、手を出しちゃいかん不可侵のライン、破ってはならない決めごとがあった。

①競走馬への出資(思い入れが過ぎて公私のバランスを崩しかねない)
②競馬関係者への接触、アクション(一線を引いて夢は夢のままにしておきたい)
③応援幕の作成と掲示(行かなければ、出さなければという義務にしたくない)

あくまで自身の均衡を保つためのものであって、それらを実行している方々をどうというわけでは決してない。
むしろとっても素敵なことだと思う。

敬愛してやまない騎手はいた。
大好きな馬もいた。
動向を気にかけている厩舎もある。
彼らのために…と思ったことは何度もある。
それでも最後の一線を越える勇気が出なかった。

上にあげたのは正論。
しかし本当の本音はさらに心の奥底にあった。
自分の気持ちを目に見える形にあらわして、不特定多数のひとの目に見えるところにバンッと広げることがとてつもなく怖く、畏れ多く、恥ずかしかったのだ。
そして、それができるひとを羨ましい、自分には絶対にできないししないから…と諦め、だから見ているだけでいいんだと達観し続けていた。

殻を破るときは唐突に訪れた。
中山グランドジャンプを鮮やかな逃亡劇で勝利したアップトゥデイトが、夏の小倉でまた魅せた。
ふり返ってみれば春から、それ以前からすでに始まっていたのだと思う。
敬愛した騎手が騎乗していた、ゆかりの厩舎の、まだ自分が思い入れる余地を残した馬。
中山と小倉で目の当たりにしたレースが過去の思い出の枠を飛び越えてきた。
アップは今、あのひとの元お手馬としてではなく、彼は彼として、今の競馬を戦っている。
頭の中では理解できていたことがようやく実感として、大きな衝撃と感動とともに押し寄せてきた。
アップトゥデイトアップトゥデイトとして愛し、彼を彼として応援している自分自身に気づいたとき、彼と陣営のために何かできることはないかと考えた。
答えは長年のあいだ心の奥底にあった。
やってみたいことがあった。
本当はずっと挑戦したかったのだ。きっと。

何もかもが初めての試みだった。
まずは自力で調べて、それでも分からないことは先人に訊いて、後押しもしていただいて。
技術もセンスもないから手間をかけた。
不安でも、拙くても、うまくいかなくても、それでもやってやれないことはないのだから。
単に応援幕を作って出しましたというだけの話にとどまらず、自分の中で頑なに囲ってとり決めていたこだわりからの脱出と、手にとれる位置に見えていた可能性と世界観が拡がった瞬間でもあった。
大好きな馬と陣営を応援したいという一心が、それらすべてを飛び越えさせてくれた。
“好き”を誰に何に恥じる必要もないし、“やってみたい”をやってみる前に諦めるのは、やってみて失敗するよりもっと苦しくもどかしい。
「恥ずかしい、もどかしい」と人目を気にしながら“好き”を持て余していた私は、思えば長いあいだぐるぐると遠回りをし続けていたのだ。
想いを伝えるすべなど、そう幾つもないというのに。

 

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こうして幾多の紆余曲折を経て、私の競馬ファン人生初の応援幕は中山競馬場パドックに並んだ。

 

これが最初で最後の一枚だと今は思っているけれど、人生何が転機でどこへどう転ぶかなんて予測不可能だから、いつか二枚目、三枚目に着手するときが来るかもしれない。
それだけにとどまらず競走馬への出資だって、尊敬するホースマンにお便りや贈り物をするときだって、おとずれるかもしれない。
しかし今はただただアップトゥデイトと陣営の行く末をしっかりと見つめていたいと思う。

いつのときも、無事に、順調に。
そして最善を願う。
ふたたびこのちょっと不格好であか抜けない幕を携えて競馬場へ行ける日を心待ちにしたい。