うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

佐藤哲三元騎手の引退表明から二年。

月日の流れとはおそろしく早いものだ。
「ご本人が諦めるまでは、諦めない」
「語られるまで、進退について推し量らない」
信じて待つだけ。
心の奥底では薄々分かっていたけれど考えたくはなかったことを、
「どんな結末になっても受け入れる」
という覚悟をもって過ごしていた日々に、ついに終止符が打たれた一日だった。
夢の終わりはつらく悲しく淋しいものだった。
いつかは必ずおとずれる日が思っていたより早くきてしまったことに、ただただ涙がこみあげるばかりだった。
あれほど強く激しくひたむきに競馬を愛したジョッキーが志半ばで夢を諦めなければならない。
ダービーを勝ちたい。
有馬記念を勝ちたい。
ドバイへ行きたい。
もう一度凱旋門賞へ行きたい…
それらすべてはファンの夢でもあった。
無念としかいいようがなかった。

当人は思いのほか前向きで、競馬評論家、大山ヒルズの騎乗技術アドバイザー職を筆頭に、イベントに予想に配信活動にと寝る間もないほどで、勝負師時代には知り得なかった優しく明るい顔を見せるようになったことはもう言わずもがな。
(もちろん未練や悔しさを滲ませるシーンも時にはあり、それらを見聞きしたくて目耳を傾けていた向きもある)
ツイッターのアカウントもとり競馬ファンとの交流も楽しまれている様子。
実は私もオンオフで数回やりとりをさせていただいたことがあり、これまで競馬場で見ていたのはあくまで“騎手佐藤哲三”であり、競馬から離れた生身の“佐藤哲三さん”はこうして今も昔からも実在していたのだと実感するに至ったのだった。

これからも変わらず、ずっと応援しつづける。
同じ競馬ファンという立場で見て感じて考えて、理解しようとしていたい。
分かりうることを分かっていたい。
その想いのもと、彼の信念に添おうとしていたのが、夢を失って一年目の心境だった。
我ながら“イレ込んでいた”のだと思う。
忘れるまい、変わるまいと必死だった。
行き場のなくなった想いは執着として残った。

あるとき哲三さんはそんな私に「まだまだ。もっと勉強しなさい」とおっしゃった(※要約)。
拘泥と執着から離れて視野を広げ、客観的に物事を見るように。
もっと競馬そのものを自由に楽しむようにと諭してくださったのだろう。
憧れと敬愛の対象を神にしてはいけないし、神をあがめる崇拝者になってもいけないよと。
具体的な真意は語られなかったが私はそのように受けとっている。
いや、解釈しなおした。
思えばそれまでは彼の視点と感性を共有したいと気負うあまり、できもしないことを成し遂げようと無我夢中だった。
思いあがりといわずしてなんと云おう。
私は私自身の目で見て、耳で聴いて、心で考え感じることしかできないというのに。

始まりは憧れだった。
憧れが敬愛となり、敬愛がやがて執着となり、その執着の先には何が残るのか。
二度目の季節はそのことを考え感じるための期間だった。
ひとつの夢と青春が終わり、流れゆく月日の中で、忘れるまい変わるまいと頑なにあらがいつづけた。
途方もなくゆるやかで長い二年間だった。
憧れと敬愛、執着の果てにたどりついたのは自由と解放だった。
そして数え切れないほどの思い出が残った。
すべての始まり、あの秋華賞からじつに八年の月日が流れようとしている。
あのプロヴィナージュが仔を産んで母となり、アーネストリーエスポワールシチー種牡馬となった。
時代が変わり、世代が変わり、世界が変わり、そうして自分自身が変わる。
変化とは人生における必然だ。
執着の薄らぎは依存からの自立であり、変わることは成長と前進だとようやく気づけたのだった。

変わらない想いは今も心の中にある。
過去に抱いた想いそのものは決して変わらない。
それらを思い出として取り出してきたとき、懐かしみ回顧し、考え感じることもまた同様。
その思い出さえも幾度もの脳内補正をうけてかたちを変えてゆくものではあるが、思い出をかたち作る事実は決して変わらない。
佐藤哲三元騎手”と“佐藤哲三さん”を想うとき、私の心の根幹にあるのは今もやはり憧れと敬愛の念なのだ。
ゆえに今後のさらなるご活躍を願ってやまない。