うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

予想も馬券も何でも、楽しくなくなってきたら引き際です

耐え忍ぶ勝負が続いている。
冬競馬はもともと苦手だ。
たとえば有馬記念なんか、エイシンフラッシュ複勝をかろうじてひっかけたくらいしか記憶にない。
もしかして他にもあったような気もするが記憶にない。
それくらい冬競馬は苦手だ。
冬競馬、好きなレースは多いのに歯がゆいことこの上ない。
そんなこんなで今年も寒くなってくるやいなや的中率があからさまに下がってきた。
毎年のことなのでマイペースにやっていくだけなのだが、どういうことか今年はそれが異様にしんどく感じるようになってしまった。
9年ちょっと競馬をやってきてこんなことは初めて。
競馬を観る以上、予想をして馬券を買うのが我がポリシーだというのに!

賭け事で銭を失うのは後ろめたさを伴う。
競馬の神様にいなされ続けるのはほんとうに堪える。
いったん楽しくないなと感じはじめると、不思議なことに全く当たらなくなる。
いったんしんどいなと思ってしまったら、どんどん気持ちがネガティブに向いてモチベーションが下がっていく。
楽しい!難しい!勝ちたい!とあれほど熱心に取り組んでいた予想さえも、でも今週もG1あるからなぁと、どこか惰性で取り組んでしまう。
義務感を覚えると心が硬くなって物事を柔軟に吸収できなくなる。
視界は狭まり思考は凝り固まってしまう。
勝つためでなく負けないための、勝負ではなく守りに入ってしまう。
信念を曲げても負けるものは負ける。
曲げて負けると精神的ダメージは倍増する。
負けを恐れるあまり賭ける数を絞ったり買い目を意図的に変えたりするからさらに的中が遠ざかる。
そしてますます自己嫌悪に陥る。
負のスパイラルだ。
こうなったら競馬そのものが楽しくなくなってくる気がするし、馬券向いてないからもう賭けるの一切やめようかなんて気持ちにさえなってくる。
事実、先日は阪神ジュベナイルフィリーズを目前にしながら準メインを最後に競馬場をあとにしてしまった。
観たら習慣で考えてしまうだろうし、今の気持ちで義務感に駆られて取り組んだところで心から楽しめるとは思えなかったので、じゃあ試しにいったんG1休んでみよう!と思い立ったのだった。

競馬を、競走馬を、馬に携わる人たちを敬愛しているから、ギャンブルとしての競馬をも受け入れて馬券を買って参加したい。
それこそが先ほど挙げたポリシーの根源。
もちろん価値観なんて人それぞれで、がっつりやるギャンブラーの人から重賞はやる人、応援馬券だけは買う人、一切買わない人、まだ買えない人…
ああしないこうしないからだめというのでは断じてなく、どんな関わり方があってもいいと本心から思っていて、どんな考え方も受け入れた上で、私自身はこうやって競馬を愛していこうという決意だった。
そんな自分が予想をしない馬券を買わないというのは、愛する競馬からの逃げだと思っていた。
一度こうと掲げた決め事から逃げることは、なにより自分の心に恥ずかしい。
だから足掻きながら取り組み続けた。楽しくなくなってくる間際まで。
しかし逃げたっていいのだ、だって仕事じゃあるまいし。
世の中には競馬予想を生業にしていて馬券から逃げられない人たちも中にはいるけれど、私なんてただのいちファンに過ぎないのだから。
何はなくとも絶対に勝負していたG1を回避してみて得られたのは、買っても買わなくてもなんら変わらず関わっていけること。
買わないくらい別に大したことじゃないんだという許しと納得だった。
何にも考えずに、パドック本馬場で、あるいはテレビで、大好きな馬をただただ眺めてみる。
自分の勝ち負け度外視で、ただただ無事と健闘を祈りながら声援を送る。
そんな幸せだってちゃんと知っているのだから

人には、信じるものに対して目に見える誓いを立てたがる性がある。
そうして自分の決意に釘を刺す。
時に揺らぎそうになる気持ちを鼓舞するために。
しかし執着が過ぎて枷になってしまうのはしんどいし楽しくない。
競馬でも趣味でも何でも、楽しくなくなってきたら引き際。
また楽しみになってくるまで潔く退いてみる。
いったん息を入れて、今やりたいことって何だろう?今やりたくないことって何だろう?と自分の心に問うてみる。
楽しみが義務に、好きが苦痛に変わることほど悲しいことはないのだから、そうなる前に。

きたる中山大障害まで予想と馬券は休もうと思っている。
とはいえたった中一週の話なのだけど。
何もせずぼんやりと観ているうちにきっと、考えに考えてマークシートを塗るのがたまらなく楽しみになっているはずだから。