うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

退き際の美学

幸せで泣けてきた。
あまりに飄々として爽やかな去りようだったから、そのときはまだ実感がわかなかったのだ。
いま、じんわりとした余韻をかみしめている。
阪神競馬場にて、武幸四郎騎手が20年にわたる現役生活にピリオドを打った。
新たな志を胸に抱いての素晴らしい勇退だった。
希望に満ち溢れた引退式を見届けたあと、帰路につきながら、決して忘れえぬあの日のことを思い起こしていた。

私がこの世で最も敬愛したジョッキーは志半ばでターフを去った。
拗ねて甘えてくるキズナをかわいいと感じ、馬を叱咤し鞭打つ乗り役はもうできないと悟った哲三騎手。
落馬をして、怪我をして、馬に乗れなくなって、入院をして、手術をして、厳しいリハビリに取り組むという、筆舌に尽くしがたい過程を経て、悩み苦しみ抜いて導き出した結論だ。
競馬にタラレバは厳禁だけれども、でなければその境地にたどり着くのはもう少し先のことだっただろう。
日本ダービー有馬記念、ドバイ、凱旋門賞、1000勝達成…
数々のやり残したことと無念を腹に抱え、すべてを飲み込んだうえでのリタイアだった。
心を分け与えてもらったファンとしては、あの日のことを思い出すたびに胸がつぶれそうになる。
しかし決意を語る言葉はよどみなく、前を見据える表情は優しく晴れやかだった。
その毅然としたさまに、逆にこちらが救われたのだった。

あのときの悲しみと悔しさと最愛のものを失う寂しさを知っているからこそ、いま嬉しい。
自ら鞭を置いたひとりのジョッキーの退き際が悔いなきものであったことに喜びと安堵を覚えずにはいられないのだ。
幸せだったと彼はいう。彼を見守ってきたひとたちもきっと同じ気持ちだろう。
夢のつづきを一緒に見ていけるのだから。

とりとめもなく、縁あって応援しつづけているあのひとこのひとは定年までホースマン人生を全うするのかなと考えてみたりする。
だとすればこのさき十年前後の話だ。
そのころ私はどうなっているのかな、まだ競馬をしているだろうか。見ているだろうか。
そんな環境に自分自身があるだろうか。難しいかもしれないが、どうかあってほしい。

秋の天皇賞をもって私の競馬歴は十年を越える。
十年といえば歴史といってさしつかえのない年月であり、ちょっとしたものだ。
長年ひとつの場所で同じことを続けていれば、そのあいだ実にいろいろなことがある。
新たな季節のたびに何人ものホースマンを迎え、見送ってきた。
大願をもってステップアップするものがいるかたわらで、悩み苦しみの中で活路を見いだそうとするもの、あるいは事情を抱えて去らざるを得ないものもいる。予期せぬ別れもあった。

ジョッキーもトレーナーも、いずれ来た道を後にする。
馬に携わるひとはもちろん、競馬ファンとてそれは同じことだろう。
戦い、抗い、足掻き、受け止め、受け入れる。
当事者たちは馬とともに、見守るものは夢とともに。
出会って別れる。迎えて見送る。競馬がつづく限り。
だからこそ願わずにはいられない。
これからもつづく縁の連鎖がよきものであることを、この世界を志し愛するすべてのひとの幸せを。

 

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