うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

騎手が馬から降りるとき。春に残した未練の話

クラシックの季節がやってくるたびに思い出すことがある。
春に残したふたつの未練だ。
2010年、ショウリュウムーン桜花賞
チューリップ賞を快勝し有力馬の一角として、のちの三冠牝馬に挑んだ華の舞台。
最内枠からの位置取りに苦慮しながらも、抜け出したゴール前で確かな末脚を見せて4着に食い込んだ。
2011年、デボネア皐月賞
弥生賞で優先出走権を手にして挑み、前走をフロック視する低評価を覆しての4着入線。ダービーへの切符を掴みとった。
そして迎えた次走。
オークス、ダービーという夢の舞台へとパートナーを導いた佐藤哲三騎手は、その鞍上にはいなかった。

やむにやまれぬ事情があった。
どちらもオーナーの強い意向が働いたとのことだ。
レース結果を不服とし騎手の乗り替わりを指示、これに反対した厩舎サイドに転厩を示唆してまで意見を通した、というのがショウリュウムーンのオーナー。
ダービーに臨むにあたってはぜひうちの主戦騎手を乗せたい、と手を挙げたのがデボネアのオーナー。こちらはいわずと知れたシェイク・モハメド殿下である。
結果、オークスでは内田博幸騎手が、ダービーではこの一鞍のために招聘されたL.デットーリ騎手がそれぞれ手綱をとることとなった。

陣営とて断腸の想いだった。苦渋の決断だったのだろう。
ほかにどうしようもなかったのだ。
ショウリュウムーンの佐々木師も、デボネアの中竹師も、これまで信頼し共に携わってきた主戦騎手を降ろしたくて降ろしたわけではなかったはずだ。
あれが大きく取沙汰されて責められるような騎乗ミスでは決してなかったこと、あるいは好騎乗であったことは誰の目にも明らかだ。
しかし、たとえ最善を尽くしたとしても叶わない、届かないことはある。
誰も何も悪くない、でもどうにもならないこと、さまざまな感情や利害関係のうねりの中で物事の流れが急激に変わっていくことは、勝負の世界ならばままあることだ。
競馬がみんなのものであるように、競走馬はファンのものでも、調教師のものでも、騎手のものでもない。
頭では、理屈では分かっている。誰だって。
それでも、悔しい、悔しい、悔しい、納得がいかない、こんなことがまかり通る競馬なんてと、かのひとのひたむきさを見つづけてきた私は涙をこらえられなかった。
涙をのむこともまた競馬と向き合うことだと思い知らされた春だった。

オークスもダービーも、馬券は買えなかった。
結果、どちらも大敗を喫した。
タラレバを言うつもりはなかったし思う隙間もなかった。
思い入れを抱き応援した馬が思いがけず敗れていくさまが、その背にいるはずのひとがいなかったことが、ただただ悲しかった。
哲三騎手がふたたび彼らの鞍上に迎えられることはなかった。
ショウリュウムーンはオーナーサイドの意向が働きつづけていたのだろうし、デボネアはダービーを最後にひっそりと競走生活を終えた。
2010年、2011年の春は重いしこりとして、いちファンの心に残りつづけた。
季節がめぐるたびに癒えない古傷のように鈍く疼きつづけた。

傷を忘れさせたのはやはり人馬の活躍だった。
プロヴィナージュとは彼女がターフを後にするまで、アーネストリーエスポワールシチーとはジョッキーそのひとが引退するまでのあいだ苦楽を共にした。
そして、キズナとはわずかに二戦。
翌年への希望が大きく芽吹いたまさにその直後、袂を分かつこととなった。
彼の活躍をもはや手と意識の届かぬ遠いところから見つめつづけることは嬉しくもまぶしくもあり、つらくもあった。
ダービーという栄光を掴んだときに流れた涙には、ありとあらゆる感情が複雑に入り混じっていた。
かつてあの背にいたひとを想わずにはいられなかった。

騎手が馬から降りるとき。
それは馬が引退するとき。騎手が引退するとき。騎手が馬から降ろされるとき。
昨今の馬の育成と教育には大一番での乗り役のスライドが大前提となり、よくいえばフレキシブル、しかし効率性と利便性を追求した人選はどことなくビジネスライクでもあり、競馬歴わずか十年足らずの私でさえ戸惑いを覚えている状態だ。
同じ馬に同じ主戦騎手がずっと乗りつづける、乗せつづけることのほうがもはや稀有な例で、だからこそ酒井学騎手が駆りつづけたニホンピロアワーズジャパンカップダートには感銘を受けたし、あるいはメイショウマンボから武幸四郎騎手が降りたことは晴天の霹靂だった。
昔は調教師が身を挺して弟子の面倒を見たとか、名馬が名手を育てたとか、今となっては終わってしまった憧れや美談として語られる古きよき時代を実際に私は知っているわけではないのだが、それでもほんの十年前はもうちょっと馬も人も今より深く関わりあっていたように感じる。
だから厩舎陣営が一丸となって飛べる馬を作っていく、馬と騎手が長い時間をかけて信頼関係を築いていく、いわば昔の香りのようなものが色濃く残っている障害競走に惹かれたのもあるかも知れない。

デボネアのダービーから約ひと月後、アーネストリーとともに春のグランプリを制した哲三騎手は勝利ジョッキーインタビューの席で当時の悔しさを口にした。あいつには負けないと息巻いた。
喧嘩を売ったのでも、恨みごとを吐いたのでも、過激なマイクパフォーマンスを披露したのでもない。自らを鼓舞したのだ。
それくらいのことは分かる。ずっと見てきたのだから。
今度は歓喜の涙が止まらなかった。
あんなにもひとりのひとを想って熱い涙を流すことは、おそらくもうあるまい。
今思い返せばあの瞬間こそが、我が青春の終わりのはじまりだったのだろう。

私がこの世で最も敬愛した騎手は、馬と人に深く携わるジョッキーだった。
限りある自身のフィールドではそれが許されていたし、そうすることができる環境と関係を自らの流儀と実績によって切り開き、確かなものとして築き上げてきたのだ。
そのさまに憧れ、強く惹かれた。
だからこそあのふたつの春だけが苦い未練として残り続けていた。
桜花賞を目前に今が2017年ということにあらためて気づき、あれから実に6年と7年もの歳月が流れたことを実感した。
傷は時間が癒す。記憶はその過程でやさしく形を変える。
ショウリュウムーンデボネアの記憶をおそるおそる紐解いたとき、もう以前のように悲しみや悔しさに駆られることはなかった。
あるのはただただ懐かしさといとおしさだけだ。
まだ記憶に新しいキズナのことも、産駒が出てくるころにはまばゆい思い出して思い起こしていることだろう。

彼らの背にいたひとはもう馬から降りて久しくなってしまったが、彼の、彼らの、そして私の競馬はきっとどこかで繋がっていて、これからも、どこまでもつづいていく。