うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

わたしなりの「馬が好き、競馬が好き」

馬とふれあう機会があった。
すぐそばまで近寄ったとき、どう接するべきなのかわからなくて戸惑った。
馬が服の袖を食んできた。
すっかり体がこわばってしまって、私は何もできなかった。
競馬ファンたるもの、本来ならもっと「なんてかわいいんだろう!」と感激しスキンシップを惜しまないシーンだったのだろうと思う。
でも私は、馬をどう愛でたらいいのかを知らなかった。
どんな声や動作で「かわいいよ、好きだよ」と気持ちを伝えればいいのかがわからなかった。
かろうじて撫でることのできた鼻先があたたかくて、嬉しくて切なくて、もどかしくて申し訳なかった。
こんなにも好きなはずなのに、私は本当になんにも知らないんだなぁと。

「馬が好きなの?競馬が好きなの?」
と問われて、「どっちも好きです」と私は答えた。
もともと動物が好きだから馬もかわいい。
競走馬として応援している馬がいる。応援幕を作って出している。
馬に携わるひとを尊敬し、応援している。
競馬場へ行けば応援のみならず予想と馬券にも取り組む。競馬のために遠征もする。
下手だけど写真も撮る。そのためにカメラを買った。コンデジだけれども。
今までもこれからも競馬の中で楽しめることなら何でも挑戦したい、と。
偽らざる本音で真実だ。その姿勢は今も変わらない。
これ以外の答えはないと納得しながらも、「~~号のダービーを観たのがきっかけで馬が好きになったんです」と迷いなく答えた、自分よりもずっと若くひたむきな同行者のキラキラした様子がまぶしかった。

私の競馬との出会いは、家族とともに興じる予想と馬券とレースだった。
まずはそこからはじまって、ギャンブルとしてゲームとしてスポーツとしての競馬を面白いと感じているうちに、敬愛するジョッキーとめぐりあった。
一度目の変化。世界は彼を中心にまわるようになった。
そして二度目の変化。
最愛の騎手が現役を退き、これまで世界の中心となっていたものをなくし、信仰を失い、自分の競馬を見る目と向きあいかたは変わらざるを得なくなった。
今も変化の途上だ。
ひとだけでなく馬そのものを見るようになった。
騎手だけでなく厩舎やオーナー、馬の周りにいるひとたちも見るようになった。
これまであまり興味のなかったこと、別に知らなくても楽しめると後回しにしていたこと、手つかずだったことも少しずつ理解していこうと心がけるようになった。
不思議なことに、好きで好きでたまらなかったひとを熱心に見つめていたあのころよりも競馬というものの全貌に対する理解は深まってきたように感じる。
今にして思えば、特定のひとりへの愛が広いはずの世界をひと一人とその周りのわずかな範囲にまで狭めていたのだった。
それはとても甘美な日々ではあったけれど、あの愛ゆえに私は今もどうにもしがたい淋しさと闘っている。
もうじき3年の時が経つが、この淋しさとはきっとこれからもずっとつきあっていくのに違いない。
しかしあの年月があったからこそ今があるのだ。
当時の自分を若く拙かったとふり返りこそすれ、愚かだったと笑うつもりも、もっとこうすべきだったと後悔する気持ちもない。
そのときその瞬間を全力で生きたことの積み重ねの上に今日があるのだから。

おそらく私は、そういう全部をひっくるめた競馬の世界が好きなのだと思う。
あのとき問われて答えたことがすべてだ。
ところが、わずかながら馬とふれあったとき、これまで自分にとってはレースというなかば2.5次元の世界を走っていた彼らの生身の肉体に対面したとき、大きく未知なるものへの恐怖にも勝る欲求が静かにわいてくるのを感じた。
もっと知りたい、ちゃんと愛でたい、向きあいたい。
でもそうしてしまったら、きっと自分は彼らを愛さずにはいられなくなるだろう。
乗馬も、一口馬主も、馬の仕事の現実も、もっと踏み込んだ応援も、それとなく避けてきたのは覚悟が持てないでいるからだ。
本当に何もない、知識も財力も若さも覚悟もなんにもない無力で薄っぺらな自分が、分不相応に馬を愛してしまったら…と思うと怖いのだ。
なんにもない私は、彼らを愛しても、なんにもしてあげられない。
覚悟が持てないのなら浅瀬のままでいいと、広く浅く楽しむ競馬ファンとしてこれまでを謳歌してきた。
たとえばあと十年若ければ、彼らとかかわることを生涯の仕事にと一念発起して、まだ見ぬ世界へと単身飛び込んでいけただろうか。
できたかも知れないし、今とさして結論は変わらないような気もする。
仕事にまでせずともアプローチの方法はほかにもたくさんある。
かかわりと理解を深めるのなんて、ひとそれぞれ独自の世界の中でひそやかに興していくことだ。

私はあのとき、「馬が好きです」と答えたかったのだと思う。
答えられなかったのは、彼らをあまりにも知らなかった自分自身が恥ずかしかったから、そしてその葛藤を対峙した馬にもひとにも見透かされていることを悟ってしまったからだ。

趣味でいいのだと思う。
生涯いちファンでいいのだと思う。
趣味をたしなむ競馬ファンでかまわないと思いながらもなおこんなにも考えることが止まらないのは、本当はもっと深く知りたいからなんだろう。
ちゃんと愛してみたいからなんだろう。
「まだまだだから、もっと馬のことを勉強しよう」と憧れてやまないひとから不意に贈られた言葉が、ずっと私の心とともにある。
この言葉を受けとったときは「レースや血統とかじゃなくって、馬のことなんだ」と意外に感じたものだけれど、今ならわかる気がする。
ようやくわかりかけてきた。
かのひとにも見透かされていた。気持ちや姿勢はおのずと伝わるものなのだ。
過去は忘れずに今を見て応援してほしいと願うひとは、これまでもこれからも馬がいるんだから少しも淋しくないじゃないかと言っている。
そういうふうに、今は解釈している。

私には好きな馬がいる。
この先も競馬ファンとして、できるところから彼らとのかかわりかたを模索していくだろう。
今はまだ悩みの最中、三度目の変化を迎えるかどうかという分岐地点に立っている。
どこへ向かうのか、どっちへ行きたいのか、何がしたいのか。
このごろ何とはなしにモチベーションが下がってきたといいつつも変わらずのつきあいがつづいているので、このまま凪いだ状態がつづくのか、現状を変えるべく新しい何かをはじめるのか、それとも。
実をいうと、もうこの先は競馬でなくてもいいのかもしれないな、と胸をよぎった時期もほんのわずかながらあった。
競馬との出会いは偶然だったけれど、それから後は必然で、競馬でなくてはならなかった。
でもこの先はわからないかもね、と揺らぎかけていたのだ。
しかし離れることはやっぱりできないようだ。一週間あいただけでもう競馬場が、馬が恋しい。
それに、競馬に命を救われたこの身はまだ誰にも何も恩返しができていない。
もっと自分には何かできること、すべきことがあるんじゃないかと思っている。思いたい。
たとえ何もなかったとしても、これから探していきたいのだ。生きがいとして。
私は馬が、競馬が好きだから。