うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

愛が執着になる前に

敬愛するひとが表舞台から一度降りてしまってから。
私は『覚悟』という言葉をひたすらくり返してきた。くり返し言い聞かせてきた。
周りにも、自分自身にも。
好きなひとが闘っているのだから、闘って導き出した結果と結論ならば、何があってもどうなっても受け入れる。
だから私はただ信じて見守るだけなんだ、と。
二年あまりそんな日々が続いた。
そして。
それから。

「私には覚悟がなかった、信じていたかった」
目の覚める思いだった。引退の報をうけて吐露したあるひとの誠の心の美しさにはかなわないと。
私の想いとはその程度のものだったのか。
そんなにも我が身がかわいかったのかと、今度は自分の心を責める日々がはじまった。
覚悟ってなんだ。
彼でなく自分のための覚悟なのか。
ただ自分が壊れて傷つかないための覚悟か。
信じているのに、敬愛しているのに、私はそんなふうにしか彼を待てなかったのか…
自分で自分を許せずに、自分で自分を責めつづける。
そんな日々が三年つづこうとしている。
でもそれも、まもなくおとずれる三年の日を区切りに、もうやめにしようと思っている。
そう決めた。
この胸の内に残っている誠の敬愛の念が、重く苦しい執着となってしまう前に。

およそ三年の間に、形あるものが酸化して崩れていくように、形のない記憶もまたすり減って傷んでいくということに気がついた。
たとえば思い出のつまったウェディングドレスをショーウィンドウの中に封じ込めて、目に見える手の届くところに飾って毎日うっとりと眺めながら暮らしていく。
そんな生活ができる人間なんてそういない。
ひとはいつまでも思い出の中で生きていくことはできない。
日常に帰って自分の人生を歩まなければならない。
思い出はいつしか生活の中に埋もれてゆく。
だから、大切なものは形を整えて綺麗にしまっておくのだ。
一切を手離して忘れるのではなく、とり出せるところに保存して保管する。
奥深くにしまっておいたことはちゃんと覚えておく。
写真や記録などの手がかりを残しておいたり、方法は人それぞれだろう。
こうして、完結した出来事からはいったん離れて、気持ちを切り替えて、日々を暮らしてゆく。
生きるとは、きっとそういうことのくり返しだ。

ずっと想いつづけることは美しい。
しかし、ひとは変わる。ひとの心は変わる。ひとをとりまく環境や状況も。
進んだり退いたり立ち止まったりをくり返しながら、愛情のかたちもまた変わってゆく。
ずっと変わらぬ想いを抱きつづけることは難しい。
思い出も、自らの想いによって美化もされれば劣化もしてゆく。
ひとは成長もすれば退化もする。
思えば私は、気がつけば立ち止まって後ろばかりをふり返っていた。
「あのころは楽しかった」「あのときが一番幸せだった」と失われた昔の夢と比べてはひとりで勝手に落ち込んで、自分の中の一番美しく純粋だったあの感情をだめにしてしまうところだった。
まだ終わらせたくはなくて、けじめをつけることはまるで愛を捨てるかのようだと罪悪感を覚えて、ひとり悩んでは悩み迷いばかりを書きつけるようになって、自分で自分の想いを重苦しいものに変えてしまっていた。
あんなにも幸せだったのに、輝いていたのに、その幸せで輝いていた日々の記憶に私はずっととらわれつづけていたのだ。
違う。
それはあまりにも悲しい愛し方だ。もはや愛ではなく執着だ。
そんなことはきっと誰も望んでいない。
彼は今を生きて輝いているというのに。
同じものを好いて、同じ時を生きているというのに。
それで充分、それが全てじゃないか。

だから、もうやめにする。
いつまでも過去と自分の想いにとらわれつづけることは。
執着になりかけていた想いを、まっさらな敬愛の念に戻していこうと思う。
愛も時には休ませたり寝かせたりして手入れをしなければ、いずれ色褪せてくたびれてしまう。
育んでいくのだ。これからも。