うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

愛と情熱と、年齢とモチベーションのお話

東京ハイジャンプ秋華賞、買えないときにかぎってピタリと予想が当たる。
「まあいっかぁ」と苦笑いしてしまった時点で、私はもう馬券をたしなむ競馬ファンとしては終わりに向かって歩いているのかもしれない。
「絶対に走る」と見込んでいたグッドスカイとディアドラが結果を出したことは嬉しかった。
でも、当の私自身は力が出ないのだ。このところずっと。
「もういや」ではないし、「もういいや」でもない。
「もういいか」と「もういいのかな」のあいだを行ったりきたりしながら、どうにかつながりを保ちつづけている。

ふり返れば競馬とはかれこれ十年のつきあいだ。
ひとつ知ればまだ知らないこと、知りたいことが次から次へとあふれ出して、知れば知るほど好きになった。のめり込んだ。
いつしか競馬は暮らしの中にさえ溶け込んで、季節や概念そのもののようになっていた。
敬愛できるジョッキーと出会えた。
最愛の馬とも出会えた。
彼らとの出会いが、ほどなく競馬を趣味の域を越えた特別なものへと変えていった。

人馬を大切に想うがゆえゲームに興じられなくなった。
キズナをかわいいと思ったから引退を決めた」とは佐藤哲三元騎手が現役を退いた際の名言だが、氏のそれとはまた似て非なる感情だ。
競走馬と彼らに携わる人々を敬愛するあまり、私の中で競馬が神聖なものになりすぎたのだ。
気軽に思ったこと感じたことが言えなくなったり、他人の冗談を許せなくなったり、レース結果を茶化せなくなったり。
夢中になればなるほどに言えない、できないことが増えて、自由をなくし、自らに課した重みで身動きがとれなくなった。
そんな中で、ついに愛する存在を競馬の中から失った。
馬にも人にも私自身にも、等しく時間は流れるのだった。

以前のように競馬に対して情熱を注げなくなっていることに気がついた。
愛は変わらずありつづけるのに、応援している馬や人は他にもいるというのに、目的や意義は山ほどあるというのに。
決して気づきたくない事実だった。
薄々感づきながらも懸命にごまかしつづけていた真意がまとわりついて離れなくなった。
エネルギッシュになれない己自身に幻滅し、これまで抱いてきた愛への裏切りにさえ思えて、熱意を維持しようと足掻けば足掻くほどに心がすり減っていった。
つらかった。
まだこんなにも愛しているのに、愛に偽りは微塵もないのに、どうしてこんなにもはっきりと終わりが見えてきてしまうのか。
それでもなお競馬からは離れられない月日の流れの中で、やがてひとつの結論にたどり着いた。

人は年をとる。
年をとるということは、考え方や生き方が変わること。
年相応に成長するということだ。
好きなものとの関わり方、想い方も変わってゆくだろう。
好きなもの自体が変わることだってある。
年齢、環境、自分自身。
年月の移ろいとともにすべてが少しずつ変化してゆく中で、数えきれないほどのいろいろな取捨選択をしながら、人は生きてゆく。
趣味とは人が人らしく生きてゆくための活力であり、人生における彩りだ。
だからこだわりつづける。あるときは人生そのもののように。
強すぎるこだわりはいずれ執着となる。
過ぎた執着は人を苦しめる。愛したものであればあるほどに。
いつしか私は趣味にのめり込むあまり、愛したものたちに依存し、自ら成長することを拒みつづけていたのだった。
もういい加減で大人にならなければ。ひとつ成長するときがきたのだ。
しかし、大人になることとは、愛したものを捨てることとは違う。
そのことにようやく気づけたのだ。
だからもう大丈夫だと。

若かったころ、愛とは無限のものだと信じていた。
愛さえあれば情熱は永遠に注ぎつづけられる、愛が無限に情熱を与えてくれるのだと信じて疑わなかった。
好きな人馬との別れを幾度となく繰り返すうちに、すべての物事には必ず始まりと終わりがあることを学んだ。
己の気持ちを偽ったり無理をしつづけているうちに、いずれ愛はすり減るし、情熱も涸れる。
疲れ果てて嫌にすらなるかもしれない。
そうならないためにはどうすればいいのか。
愛と情熱も有限で、終わりが存在する。
大切なのは終わり方、休み方なのだ。
情熱とは元気な自分自身の心の奥底から生まれる。
無理やりに愛をつなぎとめるために絞り出した偽りの情熱は、やがて執着となって心身を蝕む。
まずは自分自身が健やかでなければ、好きなものを楽しむための力はわいてこないのだ。
楽しめるときは楽しむ。楽しめないときはゆっくり休む。
自らの気持ちに抗わない。想いを偽らない。
たとえ一度夢中になって取り組んだものから離れることになったとしても、心の片隅に愛する気持ちが残っていれば、ふたたび眠っていた情熱に灯をともせる日もくるだろう。
だって人生は長い。人間は強い。
愛と情熱は有限ではあるが、時と場合に応じて充電だってできるのだ。

私は今も競馬と関わりつづけている。
情熱から熱のほとんどが引いて、愛と情が残った状態で。
時折は競馬場へ行き、写真を撮り、ささやかな馬券を買い、現地へ行かない日もそれとなく競馬のことを考える。
考えないときも増えたけれど、関心の範囲は間違いなく狭まったけれど、やはり季節や概念のように当たり前にそこにある。
明日の天皇賞を迎えれば競馬歴はいよいよ十年に到達する。
好きで応援している人馬との縁が今日まで私をこの世界に引き留めさせた。
しかし、なおも踏みとどまるのは間違いなく私自身の意志でだ。十一年目もそうなるだろう。
これを情熱と呼ばずして何というだろう。
私はやはり競馬が好きだ。
これを愛と呼ばずして何というだろう。

明日も雨の中、彼らに会いに競馬場へ行く。