うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

わたしはあなたの言葉が聞きたい

ツイートがちょっとバズった。
とはいえ何千何万の大きい話ではなく、いいねリツイートあわせて数百の微々たるものだ。
趣味と日常を細々と綴っているだけにすぎない個人アカウントにはありえない反響だったので、「なんでこれが」「あたりまえのことを普通に言っているだけなのに」「同じことなら競馬の文章か写真で反応されたいものだなぁ」と小心者は唸りつつ、黙ってなりゆきを見守っていた。

ジェンダーの問題はよく“燃える”と思い知らされた。
“一方的に好意を抱いて距離を詰めてくる男性に恐怖を感じてしまう女性”の体験と心情を綴った連作漫画への共感と、漫画への一部の反応に対する率直な感想だ。
(『私は男性が怖い』は正真正銘“バズった”漫画なので検索をかけたらすぐに出てくるかと)
誰にとっても“我がこと”なだけに、自らの性別ゆえに誰しもが多かれ少なかれ抑圧され、胸の内にくすぶる想いを抱え込んでいるのだろう。
さてどんなひとが読んでくれたのかしらといくらかホームをたどってみると、たくさんのリツイートをタイムラインに並べてはいても、何かに真剣に怒ったり嘆いたり悩んだりはしていても、自分の言葉で意見を述べているひとがあまりいないように感じられた。それが少し淋しかった。
つぶやきを通じてすれ違ったひとがどんなことを考え感じているのかを知りたかったのだ。
ところがホームを通して伝わってきたのは漠然とした負のモヤモヤだった。
たまたま流れてきた私の言葉を借りて何かを否定批判したり、誰かを攻撃するための武器として使っているのなら嫌だなとも思ったが、おかしなことを言ったつもりは毛頭なかったのでツイートは取り消さなかった。
言及も補完もしないでおいた。
何百の反応があった中で嫌な絡みは一通もこなかったので、自分の言葉にも判断にも過ちはなかったと信じたい。
いいねリツイートは他意のない共感だったのだろう。
そうなのだ。あたりまえのことにこそひとは共感したり、安堵を覚えたりするのだ。
数日経てば通知は鳴りやんだ。

議論なり提唱なり主義主張なり、確固たる信念があるのならば、なおさら自分の言葉でやるべきじゃないのかな。
常々そう思ってはいるけれど、自分の想いを言いあらわすすべを持たない、やりかたを知らない、伝え慣れていないひとは案外多いのかもしれない。
想いを言葉で伝えるというのは、想像するよりずっと難しくてハードルが高い行為なのかもしれない。
私だとて、いつまでたっても未熟者だ。
拙いながらも一生懸命に考えて、心の内から生まれた名無しの感情にひとつひとつ言葉を当てはめて形にしていっているだけにすぎない。
形にするまではぼんやりただようだけの感情の集合体。
持て余したモヤモヤは、そのまま吐露するにはあまりにも頼りなくとりとめがない。
だからこそ書く。形を与える。名前をつける。命を吹き込む。
私はそうやって自らと向き合ってきた。ひとと関わってきた。
書くことは生きる力にもなりうる。

ただ願っている。
書く場所を選んだのなら、書くことを怖がらないでほしいと。
気持ちを察してとか、黙っていても分かりあえるとか、人間の良心や深謀遠慮をありがたがるようにひとは信じようとするけれど、想いや考えはやはり言葉にしなければ伝わらない。
リツイートも、ネットスラングも、スタンプも、コラージュも面白いけれど。
いまの時代、的確に伝えるツールはそこかしこにあふれているけれど。
整然とした手ざわりのいい型枠にはとても収まりきらない想いも、生きていれば何かしらある。
時にはもっと自分の内なる想いの力を信じる瞬間があってもいいのだ。
ひとにものを伝えることは素晴らしい。ひとの想いを受けとることも素晴らしい。
だから、言葉にすることに億劫にならないでほしい。
自ら発したものを、たとえば「駄文ですが」と必要以上に貶したり、恥じたり、茶化したり、濁したりするのももったいない。
誠実な言葉には魂が宿る。
ひとはそれを言霊と呼ぶ。

怒ってるんじゃなくて。嘆いてるんじゃなくて。
否定批判じゃなくて。悲しいのでもない。そんな大げさな話でもなくて。
ただ、このごろ少し淋しいから、誰にとはなしに願っている。
「わたしはあなたの言葉が聞きたい」と。