うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

愛することは、許すこと

来週末、応援幕を出しにいく。
確実にパドックに張りたいから開門前に間に合うよう現地には前日発の高速バスで向かう。
好きなもののためにがんばるのは楽しい。
成し遂げるために毎回かなり力を出してがんばっている。
我ながら強いこだわりだと思う。
よくやってるなとも思う。
だから時々怖くなる。淋しくなる。
いつかしたいようにできなくなる時がきて、したいようにできなかった自分を許せなくなる時がくるのかもしれないなぁと。
おそらくそう遠くない。いつかは、いつの日か必ずおとずれる。
いまこんなにも好きで幸せなのに、いつの時からか、夢が終わるいつかを意識するようになっていた。

好きなものがあって、好きなもののために行動できることは、人生における無上の喜びだ。
趣味は生きる活力となる。好きは心の糧となる。
生きることとは生活だ。
自分以外の人や社会とかかわって、自らの役割をこなしながら、服を着てご飯を食べて家に住む。
その中でしたいこと全てを選びとるのは難しい時も出てくる。
日々の暮らしに追われて気持ちが上向かないこともある。
たとえ厳しい状況にあったとしても、真面目で情の深い人ほど懸命に力をふり絞ろうとするだろう。
好きなことで疲れや苦痛は感じにくい。充足感は確かに得られるからだ。
だから時にはキャパシティ以上にがんばれる。
が、自分以外の何かのために自らが生きることを犠牲にすれば、いずれ帳尻が合わなくなってくる。
仮にその時は100%以上の力で何とかやりとげられたとしても、次もまた同じようにがんばらなければと必要以上に義務感を背負ってしまうかもしれない。
がんばれなかった時に自分自身を責めさいなんでしまうかもしれない。
がんばるって何だろう?好きってなんだろう?
いつまでもトップスピードで走り続けられる馬などいない。
わたしたちはそのことをとてもよく知っている。

年をとるごとに、社会的な役割が増えるごとに、がんばれることはゆるやかに減っていく。
楽しみたいはずなのに、好きなことを楽しむ気力がわかない時もある。
私の場合はもちろん大好きな競馬だ。
まだみぬ世界をこの目で見たい。
応援する人馬のがんばりを見届けたい。
いまは、いましかない。
でも、私も、私しかいない。
馬も人もレースも一期一会だけれども、私の心と身体もいまの一瞬をもがきながら生きている。
だから愛するものと同じように自らをも大切にしなければならない。
もって生まれた心と身体で何かを愛したり、打ち込んだり、喜びを感じたりするのだから、自分が壊れてしまってはせっかくめぐりあえた楽しいものも楽しめなくなるからだ。
それは何よりも悲しい。
好きなことを好きに選んで生きていくのと同じように、時にはがんばれなくなる自分自身をも受け入れて許すこと。
自分以外の何かを愛することは、自分自身を知り、認め、許すことでもある。

私は年をとった。
がんばれることは数年前よりも減ってしまったのかもしれない。これからも減っていくのかもしれない。
そのかわりにいまは、若く無知だったころとは全く違う景色が見えている。
年をとることは経験を重ねることだ。
経験を重ねて人は成長する。
自分以外の何かを愛し、自分自身をも許せる人はきっと、どんな時も悔いのない選択ができるはずだ。
そういう強い人間に、生涯をかけて、私はなっていきたい。