うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

みんなが信じる自分を信じろ!

自信がない。
ということは、他人が認めてくれている自分自身の姿を客観的にとらえられていない。
芯からひとを信じられていないのと同じこと。
自己肯定がうまくいっていない。
そう気づいたのはやはり他人とのかかわりの中でだった。
好きなものを通してひととの縁に恵まれる機会が増えてからというもの、私はまだ誰にも心を開けていないのだと思い知らされた。

地道に取り組んできたものを褒めてもらえることが多くなった。
そのたびに、そんなことは決してないと恐縮した。
贈り物のようにありがたい言葉の数々を、自ら望んだ言葉をまるでひとに言わせているような申し訳ない気持ちになって持てあました。
私はあなたのような立派なひとにそう言ってもらえる価値のある人間じゃないと縮こまった。
優しくしてもらっても、優しさを受けとることへの罪悪感を拭えずにいた。
他人へ向ける優しい気持ちを自分自身に向けることがどうしてもできない。
それは甘えなのだと戒めた。
甘えていたのは、自分自身の心にだった。

私は、他人が怖かった。
ひととのかかわりが怖かった。
他人からどう見られているのかが気になるのに、ひとの真意を知るのが怖い。
覚悟をもって言いたいことを書くといいながら、思想や言葉でひとを不快たらしめて忌み嫌われることが怖い。
本当の気持ちをさらけだして引かれるのが怖い。
好きなものを好きじゃないと言われるのが怖い。
求めて拒まれるのが怖い。
だから、自らひとと深くかかわろうとすることができなかった。
あらかじめ自己評価で自らに赤点をつけて、ひとに批評されることから逃げようとした。
傷つくことを恐れるがゆえに、私のプライドは、ちっぽけだと蔑む自分自身の心をばかり守りつづけていた。
これこそが目の前にそびえ立つ心の壁だったのだ。

私は、書いたものを認めてもらえて嬉しかった。
優しくしてもらえて嬉しかった。
競馬を通して好きなものを分かちあえることが嬉しかった。
限りある時間の中で同じ瞬間をすごせて嬉しかった。
あなたを好きだと言ってもらえて、たくさんの素晴らしいひとと出会えて、心はずむ会話ができたことが嬉しかった。
こんなにも満たされてきたのに、いつでも“目の前にいるあなた”を好きだと心から信じて疑わないのに、なぜ相手は違っていたかもしれないなどと恐れていたのだろう。
失礼にも程があるじゃないか。無責任にも程があるじゃないか。
自信がないにも程があるじゃないか…

自分を信じることはきっと、ひとを信じること。
ちっぽけな私はまだまだ自信を持つなんて大それたことは言えないけれど、縁あるひとを信じることならできる。
ああ、好きだなぁ、と思えるひとが私を認めてくれている。
これ以上の厚い信頼があるだろうか。
だから、ひとを信じるように自分自身を信じてみる。
優しい言葉や嬉しい評価を、贈り物のようにありがたく受けとってみる。
信じることはきっと、許し認めることだ。
あなたを好きになるように、生涯をかけて自分を好きになる義務と権利が、私にはある。