うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

怒らない、解りたい、許したい

ものを書いている限りは。
好きなものを愛でて楽しんでいる時は。

オジュウチョウサン号が満票で最優秀障害馬に選出されなかったことは、個人的には不可解に感じたし、とても残念なことでした。
この結果を受けてたくさんの競馬ファン、障害ファンの皆さんがやはり落胆し、あるいはおかしいと声をあげ、“満票を阻んだ該当馬なしへの一票”は大きな物議を醸しました。
私は「残念だな」と感じつつも、大きな論争の中に分け入り、一緒になって憤ることができませんでした。
こんな薄情な人間は障害ファン失格だと思う人がいるかもしれません。
先日の記事での言い分はおかしいと感じた人もいるかもしれません。
実をいうと、私も我ながら「おかしいのかな」とあれから思い悩みました。
なぜ残念だと感じているのに、みんなと一緒になって憤れなかったのだろうと。
それで、今一度よく考えてみて、気持ちの整理をつけようという決断に至りました。

「なぜ、そう思ったのだろう」。
人の話を聞くとき、文章を読むとき、報せを受けたとき。
別に何だっていいのですが、まずは当事者の心の内を知りたいと私は望みます。
今回の件については、「なぜ該当馬なしに投票したのだろう」。
オジュウチョウサンという他に並ぶものなき名馬がいながら、なぜ。
一年をかけて競馬を観ている人間ならば彼を最も活躍した障害馬と認めて票を投じずにはいられないはずなのに、なぜ。
昨年はそうしていたのに今年はそうならなかったのは、なぜ。
障害廃止論者であるとか、二年連続の満票を阻みたかっただからとか、炎上商法であるとか、憶測でなら何なりと言えるでしょうが、真意は当の本人にしか分かりません。
いくら他人が想像の限りを尽くしても、当人の口から語られでもしない限り、真実を知るすべはないのです。

では仮にそうさせる何らかの意志があったとして、「オジュウチョウサン号に投票する以外の選択は罪なのか?」
答えは否です。
オジュウチョウサン号に投票すべきなのでしょう、至極普通に考え感じたのならば。
理由は上に述べたとおりです。
競馬ファンとして、障害ファンとして、私も結果はそうあってほしかった。
想いを同じくした人が大勢いる。だから波紋を呼んでいます。
でも、そうしなかった何かしらの理由が当人にはあったのでしょう。
“思い、感じ、表現する自由”は誰しもに平等に与えられている権利です。
今回の場合は投票権です。
ここで誤解をしてほしくないのは、今は“自由と権利”の話をしているということ。
“すべき”というのはあくまで感情論であり、そうあってほしいという理想であり願望です。
しかし、これらの境界は非常に曖昧で混同しやすい。
たくさんの人が主観と客観に基づいて優秀な馬を選び賞を与えようというのですから、当然のようにさまざまな感情や思惑が入り乱れます。
今回は一票の思惑により、昨年は成った満票が今年度はかなわなかったという形です。
もちろん権利を行使した一票だったわけですが、感情がこれを拒絶するという気持ちは痛いほどわかります。
ただ、私はあくまで個人の自由と権利を尊重するという話を先日したのであって、私的な感情としては今日述べたとおり不可解に思えたし、とても残念でした。
障害競走を愛好し、オジュウチョウサンという名馬を素晴らしいと認める感情がそう思わせたのです。

今回の結果を受けて声をあげることは、何らおかしなことではありません。
率直な力強い声が数多く集まればそれがひとつの世論となります。
しかし世論が働きかけるべきは個人の主義主張ではなく、世相や団体です。
こういうときに是非を問うべきなのは、謎の一票というよりも、投票のシステムそのものなのではないでしょうか。
投票者の資格を問い直すべきだとか、そもそも賞金順やポイント制にすればいいとか、いろんな意見が聞かれます。
長年培われてきた伝統そのものを変えることは難しいのでしょうが、投じた票の意図を知るすべがあれば納得できる人は多いかもしれません。
何だかうまい考えが浮かばないのですが、各々の根底にあるのは“競馬への愛”だということはまず間違いないと思うので、個人の思想や行動を糾弾したり、理想とする結果を得るために異物として排除したり…というのは理にかなっていないな、怖いなと私は感じてしまうのです。
大元の団体やシステムが“投票するに相応しからぬ”と判断したとすれば、そうか…と頷きつつもやはり説明を求めるでしょうし。

最後に、個人的な話をさせてください。
できれば、できるだけ、私は怒りたくない。否定批判をしたくないという考え方です。
許せることは許したいし、許せないことともうまく折り合いをつけていきたい。
そのために今一度よく考えて、気持ちの整理をつけるためにブログやツイッターで文章を書きます。
どこにも書けないことは、おそらくどうしても許せない、理解できない、好きになれないことです。
そういう事柄にはわざわざを魂を削りません。
文章を書きあげるためには恐ろしいほどの膨大な時間と精神力を消費します。
我が身を削って呪いのような言葉を編みあげたところで、読んだ人とて気持ちよくはなれないでしょう。
書くということは許したい、解ろうとしたい気持ちのあらわれなのです。
価値観は多様であるべき、“自由と権利”と“感情と願望”はそれぞれ分けて考えるべき。
そのうえで頭ごなしな否定批判はしないという覚悟で私はものを書いています。
長いあいだ競馬をやっていると本当にいろんな人、いろんな主義主張や価値観との出会いがあります。
似ているもの、違うけれど惹かれるもの、不思議なもの、相容れないもの…
幾多の出会いと別れの中、やはり気持ちや好きなものを同じくする人がいて、そういう縁をこそ大切にしていきたい。
今回のことをどうしても誤解したままでいてほしくない人がいるので、これはいわゆる私信です。
伝わればいいなと願いながら、伝わらなければそれもやむなしと心を決めました。
失望されても、嫌悪されても、価値観の違いなので仕方ないねと受け入れるのみです。

綺麗事かもしれない。臆病なだけなのかもしれない。
私はこういう生き方しかできない人間です。
ものを書いている時は、好きなものを愛でて楽しんでいる時は、綺麗でありたい。優しくありたい。
だから、ごめんなさいと謝りながらでも、私は書き続けます。