うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

壊れる前に見つけて治そう(自戒)

すこぶる健やかに生きてきた。
これといった大病もせず、部活で足首を捻挫するくらい。
丈夫な血統、頑丈に産んでくれた親に感謝している。
だから前職で腰を傷めたときは本当に参った。
接骨院通いをして完治はしたものの、これ続けられないなと職を辞した。

時を経て、あの苦しみふたたび。
今回は左肩。原因は分かっていた。職業病だ。
なので通い慣れた接骨院の戸を叩いたのだった。
電気と温熱とマッサージは“なんかきもちいい”ので効いてる気がする、治っていってる気がする。
それで判断が遅れた。
否、信じたかったのだ。
前はこれで治った、こんなに真面目に通ってるんだからと。
「なんか…痛みの感じが変わってる?」と疑心暗鬼に陥り整形外科を頼ったときにはもうひと月が過ぎていた。
なまじ頑健だと自らの治癒力を過信するあまり機会を逸する。

謎の体調不良だったものに名前をつけられたその瞬間から、もう意識がその病名にとらわれた。
肩関節の炎症ごときでこんなにショックを受けるんだから不治の病の宣告などされたら目の前が真っ暗にもなろう。
昨日まで投げられていた豪速球が投げられなくなったエースピッチャーの苦悩だったり、大ダメージを食らいながらも敵に立ち向かっていくバトルものの主人公の姿などが心をよぎり。
「朝起きたら腕が動くようになってないかな」と奇跡を願ったがついにはかなわなかった、と後に述懐したかの元ジョッキーの心境を想い。
ああそれは辛かろう、私なんて、これしきのことでも痛いのに…。
でも毎朝寝床から身を起こすのに、服を着替えるのにエイヤッと気合いを入れるとか、深刻なエラー以外の何ものでもないではないか。
まあ職業病みたいなものだけど。

そうだ、職だ。
仕事に支障出る、治療費かかる、今後の生活の見通し変わる。
プライベートでの行動範囲も狭まる。
ひとくちに治療といっても、施術ひとつで魔法のように一発で完治するわけでは決してない。
痛み止めの薬を毎食後飲み、皮膚がかぶれる強い湿布を貼り、交互に膏薬を塗り、電気を当てに通い、注射を打ち…
気の長い話だ。
気合いで病は治せないが、病を治すのに気合いは要る。
体力も要る。根気も要る。金も時間も要る。周囲の理解と協力も要る。
しかしその気合いと体力は病でそがれている…
生活に闘病がわりこんできたぶん不動のポジションから押し出されるものも確実にある。
私の場合は趣味だ。
なってみて分かったことだが、身体に不安な部分を抱えると、なんだか意欲がわかない。
何をするにも「痛いんだろうなぁ」と身構えてしまう。
競馬場へ行くときには鞄を左肩にかける。
荷物を取り出しやすいし、利き手がフリーになって動きやすいからだ。
肝心の左肩が、いまものすごく邪魔。
イレギュラーな動きと内外からの圧にめっぽう弱くなっている。
ゲームでいうところの防御力0、なんなら歩くたびに1ポイントずつダメージを受けてる状態だ。
楽しい場所へ行ったら最後、楽しくて羽目を外して無理して消耗する。
そしたら仕事に(ループ)
…まあ、身体が元気になったら体力も意欲も自然に戻ってくるでしょう。
なんせ、やりたいことはまだまだいっぱいある。

もっときつい思いをしている人には、逆にいま健康な人には、「その程度のことで」と一笑に付されがちなのが病だ。
病気や怪我、不調のつらさは背負っている本人にしか分からない。
同じ立場にいる人、体験者ならば共有はできる。共感もできる。
そうでなくてたとえ理解が不可能でも、ただ頷くことならできる。
「ああ、わたしにはよくわからないんだけれど、あなたはいましんどいんですね」となんとなく思ってもらえるだけでもありがたい。
私はできてただろうか?
自分が元気なときって案外そういうことに無頓着だったりする。
これも不健康になってみて得られた実感だ。
何事も、実際になってみないと分からないもの。
想像とは知の力だ。

勿体つけるのもなんなので、病名はなんか難しい、四十肩の一種です。
若くてもなる時はなるそうです。ちゃんと治さないと後遺症が残るそうです。怖い。
というわけで、もしも身体の可動域に違和感を覚えたら、レントゲンを撮ってくれる整形外科にかかることをお薦めします。
痛みの我慢は苦しみしか生まない。
肩は精密機械。セカンドオピニオン大事。

気合いならある。
「絶対に完治させて競馬場を満喫する」という、何ものにも勝る原動力が。