うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

出会いに出遅れなんてない

タップダンスシチーの競走時代を、私は見られなかった。
引退したずっとあとに知り、リアルタイムで得られなかった記憶の空白を埋めるように幾多の英雄譚を手繰り寄せつづけてきた。
やがて想いが天に通じ、金鯱賞三連覇を成し遂げた中京競馬場で対面を果たすことができた。
ひと目で惹かれた。
思い描いていたとおりに我の強い好漢だった。
大出遅れだったなぁとあらためて悔やんだ。
もっと早くに出会いたかった。

どんな相手にも常に真剣勝負を挑んできた稀代の名コンビ“タップと哲三”の戦いは、十数年の歳月が過ぎ人馬ともに現役を退いた今も語り草となっている。
ことに女傑ファインモーションに奇襲をしかけた有馬記念
周知のとおり、あの騎乗には賛否両論があった。
自ら勝ちにいく、大本命を負かしにいく勝負師のレースだと絶賛する声もあれば、人気馬潰し、自分勝手にレースを壊した、といった否定的な意見も多く挙がった。
しかしジョッキーは「自分たちから馬券を買ってくれているファンもいる」とレースを終えたあとも決して信念を覆すことはなかった。
現に二着入選という結果を叩き出していたのだから誰も文句は言えまい。
今もどこかで誰かがあのエピソードを語るたびに、気持ちがぐらぐらとたかぶってくる。
凪いでいた感情がたったひとつの波紋で未だこんなにも波打つ。
知る者を羨むような、同好の士を慕う仲間意識のような、ともすれば嫉妬にも近く、あるいは後ろめたさのような。
私はその熱い談義に混ざることはできない。
当時の彼らを語れるだけの感情を、持ち合わせていないからだ。

オールドファンが過去の名馬を語るときに帯びる熱、神聖なものへ向ける眼差しをまぶしく見あげながらもいくらかの畏れさえ感じてしまうのは、自分が競馬の中で築いてきた歴史がまだまだ浅いからだろうか。
人も馬もレースも生き物だ。
時の流れにより常に変化してゆく。
だから競馬は面白い。そして儚い。
あとから結果を把握することはできても、時機を逃せばもう決して後戻りはできなくなる。
緊張、熱気、はりつめた空気、あらゆる喜怒哀楽、回顧、世論。
一瞬の中に封じ込められた永遠。
感情だけが当時を知らない。
知識やデータからほぼ正確な全貌を推しはかれたとしても、一番肝心な手触りがない。実感がない。
私がともに築けなかった歴史。
その最たるものが、敬愛した騎手の相棒との勇姿。
好きなのに、ずっと切なかった。
私は“タップを知らない哲三ファン”だ。

得られなかった記憶を惜しみ、得られたならばと羨みつづけてきた。
競馬を愛する者ならきっと誰もが一度は通る道だ。
見たかった、知りたかった、出会いたかったは愛するがゆえ。
しかし“知らない自分”をあまりにも後ろめたく感じ、振り向いては悔やみつづけることは、あとにつづくこれからの同志をも否定し拒むことにつながりはしないだろうか。
好きなもののすべてを知る必要はない。何もかもを知ることはできない。
知り得ないからこそなおさらに惹かれる想いもある。
少しの淋しさとそれゆえの強い憧れを抱きながら、今とこれからを知ってゆける、愛してゆける。
そういう幸せもあるはずだ。

歴史はきっと、自分の目と手で創ってゆく。
想いが芽生えた瞬間こそがすべてのはじまり。
今まさに私の目の前を、出会えた彼らが、未来の名馬たちが走っているのだから。