うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

誰がための競馬

「このごろ、競馬がつまらない。」
「大レースになるとこれまで乗ってきた主戦騎手を降ろして、外国人ジョッキーに乗り替わりばっかりで」
「この馬にこの騎手この陣営、という昔ながらの情や絆が希薄になってしまった。」
確かに、そうかもしれない。
勝つための鞍上交代はもはやありふれた戦略となった。
それを悔しいな、淋しいな、なんかやだなとモヤモヤするのは競馬ファンとしてはごく自然な感情だ。
一方で、比較されるようにこういう声も聞く。
「だから、乗り替わりのない障害はおもしろい。」
果たして、そうだろうか?
比べることだろうか?
どちらかを上げて下げることだろうか?
今の競馬がつまらないのは、障害レースがおもしろいのは、本当にそれだけが理由だろうか?

平地競走と比較される障害競走にもシビアなスライドは発生する。
アポロマーベリックのもともとの主戦は草野太郎騎手だったし、西谷誠騎手と北沢伸也騎手とで乗鞍を分かちあったレッドキングダムの例もある。
今をときめく王者オジュウチョウサンの障害デビュー時に手綱をとったのは大江原圭騎手で、本格化する以前ということもあり勝利とはほど遠い結果だった。
障害レースに目に見えた意図を感じさせる乗り替わりが起こりにくいのは、単に乗り役が慢性的に不足しているからだろう。
もちろん一頭の馬に人が物理的、精神的に深く携わる特性によるところも大きい。
ひとりの障害ジョッキーが厩舎陣営の理解と協力を得ながら、まっさらな状態の競走馬を自分仕様のジャンパーへ作りあげていく。
これこそが障害レースの醍醐味だ。
だから「障害はおもしろい」。
だから「今の平地はつまらない」のだろうか?
平地の競走馬だって、多くの人間がかかわった調教過程を経てレースに臨んでいる。
なにより、もとはといえば障害馬だって平地のレースを走ってきた。
どちらも同じ競馬で、同じ競走馬だ。

未勝利戦を脱すること。
ひとつでも上の条件へと勝ちあがること。
競走馬が目指すべき道は常に険しい。
しかしジョッキーが勝ちたいと願い、実際に勝てる瞬間と、馬が走るタイミングが必ずしも一致するとは限らない。
人馬のピークが重なり合ったまま共に歩めることがベストとはいえ、現実的にはどちらにも期限がある。
人間のスランプは一時。
競走馬にとっては、同じ時間が一生を左右しかねない重く長い年月となる。
限られた時間の中で陣営は試行錯誤をしながら、できる限りの最善を尽くす。
芝からダートへの路線変更を試みる。
入障という可能性に懸けてみる。
距離を延ばしてみる。あるいは短縮してみる。
調教の内容を見直してみる。
思い切って放牧に出す。連闘してみる…
それら限られた選択肢の中にひとつに、鞍上がある。
上位騎手で見てみるのも、腕っぷしの強い地方出身騎手を乗せてみるのも、トップクラスの外国人ジョッキーを頼ってみるのも、これまでコンビを組み調教をつけてきた相棒に引き続き任せてみるのも、すべてが賭けであり可能性だ。
誰を乗せるかは、競走馬の所有者であるオーナーを含めた陣営の方針による。
それが大レースを勝ち負けしようというスターホースならばなおのこと。

競馬とは馬が主役の、馬と人、人と人との共同作業だ。
数々の降板劇の大半は、必ずしも失敗の恨みつらみから起こっているわけではない。
とはいえあからさまになってきたのは、幾多の失敗と成功の積み重ねが一本の道となり、ゆくべき道が整い、競馬がビジネスとして成り立つようになったためだろう。
夢を見るのはタダだけど、夢を叶えるためには金がいる。努力と工夫もいる。
オーナーも陣営も出資者も、もちろんファンや馬券購入者も、誰しもが例外ではない。
金銭と労力をなげうつからには、成果と見返りを求める。
できるだけ損をしたくない。あわよくば得をしたい。
商いの根幹が今の競馬にもある。その筋道ができてきた。
先人が築きあげてきた叡智と努力の結晶だ。
勝つための乗り替わり。
古き良き昔からも存在する流れではあったが、今のこの時代、人間も価値観も、環境も時流も大きく変わった。
一頭の馬を勝たせるために忌憚ない意見を交わせるようになったということだろう。
人間が変わらなければ進歩はない。
革新なき文化の未来は決して明るくはない。
われらが競馬は、どうだろう?

ジョッキーは花形の職業だ。
日向で脚光を浴びる者がいれば、日陰となり主役を支える者も存在する。
最近でいえばキタサンブラック武豊騎手と黒岩悠騎手、テイエムジンソクの古川吉洋騎手と竹之下智昭騎手の関係性がまさにそれだろう。
しかしこの世界に携わる誰もが馬と人と日々真摯に向き合い、誇りをもって競馬に取り組んでいることをわたしたちは知っている。
競馬は幾多の信頼なくしては成り立たないスポーツだからだ。
華やかな表舞台のみならずバックヤードを精力的に報じる機関が増え、ファンが知りうる情報は格段に増えた。
きっと、だからこそ、わたしたちは悔しいのだ。
すべては、人が人を好きだから。
この気持ちは何ものにも否定されるべき感情ではない。
でも、数多の苦悩と決断を繰り返しながら闘いつづける者たちを否定すべきでもない。
彼らは終わりなき挑戦者だ。
負けたのは戦ったから。失敗したのは挑んだから。
たとえ賞賛される結果でなかったとしても、数えきれない失敗と敗北の積み重ねこそがやがて掴む勝利への糧となってゆく。
夢、金、信念、行動。
すべてを懸けられる陣営がより栄光へと近づける。
わたしたちも、愛すべき彼らにかけている。
共に戦うことはできないが、それぞれ形は違えども、同じ夢を見ている。

馬が勝てばみんなが幸せ。
一番幸せなのは馬でなければならない。
馬にとっての幸せとはなんだろうか?
それは、生きることにほかならないのではないか。
馬にとって、生きることとは勝つことだ。
生き延びること。勝ちあがること。
『勝たせたい』は『生かしたい』。馬への人の切なる愛だ。