うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ひとり、おんな、けいば

おひとりさま女子とはよくいったものだけれど。
ただの女ひとりに“お”も、“さま”もない。“子”でもない。
ひとりは淋しいのでも、ダサいのでも、暗いのでもない。
流行に乗っているのでも、気取っているのでもない。
私はどこへ行くにも基本的にひとりだ。
誰かと一緒の楽しさも知っているけれど、本当に好きなこととはじっくり向き合いたいから。

人生につまずいて生きる力をうしなっていたとき、競馬と出会った。
世界の美しさを思い出させてくれた競馬にどんどん魅せられていった。
自分で自分を抑圧し、自分を赦せなかった私は、生きる喜びと自由を競馬の中で見つけたのだ。
それをこころよく思わないひともいた。
十年来の親友には「女がギャンブルなんて」と顔をしかめられた。
つきあいはじめた男性には「僕と競馬どっちが大事なの」と問いつめられた。
みんながみんなそういう人間ばかりじゃないよと頭では理解できたものの、心から信頼していたひとに真っ向から否定されるとさすがに気がとがめてくる。
そりゃあ、競馬はギャンブルでもあるけれど。
だから受け入れられないひともいるのは、過去の自分がそうだったからよく知っている。
でも、“女”で拒絶されるって、なんだろう?
私が競馬場の中で出会ったひとたちは皆よき同志だった。
性別で線引きするひとはただのひとりもいなかったし、趣味仲間である以前に人間同士として考えかたや感じかたを尊重してくれた。
そんなひとたちとの間にもうけた場所はとても居心地がよかった。
じゃあ、ひとりで競馬を楽しむ女性をよく思わないひとって、なんなんだろう?

『競馬場にひとりで来てる女って何なのwww』
競馬場にひとりでいる女は騎手の追っかけ。
関係者の愛人。
めんどくさいこじらせサブカル
馬が好きな自分に酔ってる自称UMAJO…
定期的にあがってくるこの話題、5ちゃんねるや情報サイトの掲示板はなるべく見ないようにしていても、SNSのタイムラインに流れてくればどうしても目に耳に入ってくる。
キュレーションサイトの見出しだけでなんともいえない気持ちにさせられてしまう。
趣味の中でまで“女と偏見”の目で見られるのかと。
わざわざこんなことを言うひとたちは、一体誰で、なんなんだろう?
オンオフを問わず、たくさんの人間が集まるところにはいろいろな価値観が入り混じる。
特に匿名が許されるネット上には自然と悪意も集まる。
悪意は攻撃性となって、叩ける対象を探り当てる。
ほんのちょっと羽目を外した意地悪な気持ちがひとつの集合体となる。
同じ気持ちが集まれば、何とはなしに大きな気持ちになって、ちょっと乱暴なことを言いたい、何を言ってもかまわないと錯覚してしまうのだろう。
現実世界では口にするのもはばかられる不適切な言葉であふれているコミュニティもある。
その断片が時おり自分のテリトリーにも紛れてくるのだ。

きっと、ひとりひとりに深い悪意は、言葉のひとつひとつに深い意味はないのだろう。
でも時に真に受けて考え込んでしまうのは、私自身が心のどこかに後ろめたさを感じていたからだ。
女性としての成果もあげられず、女性としての役割も果たせずに、こんなところでひとり遊びをしている場合だろうか。
そういうところを暗に責められているんじゃないのか。
ひとりで自由に競馬を楽しむほどに、世間的に見れば一人前の女性になりきれず、自分勝手に生きているだけなんじゃないのかという、ぬぐいきれない後ろめたさも感じていた。
かつて親友に、恋人に拒絶されたことを忘れられずにいた。
おなじ競馬を好きでも恋人と信頼関係を築いたり、結婚生活と両立している女性はたくさんいる。ひとりでも凛と胸を張って生きている女性もいる。
そういう素敵なひとたちとふれあうたびに、「なのに、私はできなかった」と自分を恥じて小さく縮こまっていた。
「女なのに」「女だてらに」と私をとがめていたのは、ほかでもない自分自身の弱い心だった。
失意のどん底にいた私を受け入れてくれたのは、閉じていた心を開いてくれたのは競馬だったというのに。

いまや競馬は名実ともに紳士淑女、老若男女のものだ。
競馬場の門はいつのときも大きく開かれていて、何者をも拒まない。
性別で分け隔てをすることもない。
趣味で男性らしさ女性らしさを推しはかるものではないし、こうあるべきと押しつけるものでもない。
二人や大勢で過ごすのが好きなひとがいるように、ひとりで楽しみたいひともいて、それが男性であるか女性であるか、そこに大差はあるだろうか。
もって生まれた性を、多かれ少なかれ意識しながらひとは生きてゆく。
たったひとりきりで生きてはゆけないから、自分が他人にどう見られているのかも気にとめながら生きてゆく。
それでも。だからこそ。
せめて好きなものの中では解き放たれてもいい。
それくらいの自由は認められてもいい。
愛し楽しむ人間を赦し受け入れる懐の深さが、競馬にはあると思うから。