うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

友達になりたくて、なるべきで、なれなかった

先日、大切なひととお別れしました。
お別れの理由と、去らねばならないことへのお詫びの言葉を残しての、一方通行のさよなら。
SNSにおけるアカウント削除は、現実の別れよりも苦しいものなのかもしれない。
ひとたび相手が消えてしまえばもう二度と声は届かなくなってしまうから。

気持ちは通じあっていたと思える。
これまでやりとりしてきた想いに嘘はない。
心と文字と言葉だけの世界で、あたたかな感情の中にふわふわとただようのが心地よかった。
だから信頼しすぎてしまった。
好きになりすぎてしまった。
その気持ちを悟られてしまったのかもしれない。
去らねばならなかったのは文字どおり“事情”だったのかもしれないけれど、確かめるすべはもうない。
“事情”という言葉にどれだけのものが込められていたのかは、もはやひとりで想像するしかない。
切り離されたのか、切りあげられたのか、背負ってくれたのか。
真意はどこにあったのだろうかと。

あのひとと私は、確かに信じあっていた。
感謝と信頼と親しみの念を言葉にして心を寄せ合うのが心地よかった。
ただ、その想いに見合うほど、お互いのことを知らなかった。
打ち明け合ったのは本名と職業と年齢と、好きなものや考え方を少しずつ。
それでゆるぎない関係を築いていけると思っていた。
すべて分かり合えると思っていた。
ひとつ心を開いてもらうたびに、ひとつ受け入れて、失敗しないように、嫌われないようにと私は慎重にあのひとの優しい言葉を受けとり、慎重に丁寧に優しい言葉を返していった。
そうして少しずつ心を開いていけると信じて疑わなかった。
でも友情を望むのならば、声と体を持ち呼吸をして生きている生身の人間として、地に足をつけて出会いなおすべきだった。
心と文字と言葉だけの心地よい関係だけでは知り得ない、大変で面倒な愛すべき現実の姿を引き受けてでも、私は尊敬するあのひととは友達同士になりたかったのだから。

一歩を踏み出せなかったのは、自分に自信がなかったから。
立派な肩書きがあるでもなく、すでに若さを失い、容姿が優れているでもなく、どこにでもいる平凡なありのままの自分をさらけだす勇気がなかった。
私が注意深く発する言葉ほど、私自身は美しくなかった。
そのことが悔しくて、悲しかった。
幻滅されるのが怖かった。
そうしてすべてを失うのが怖かった。
自分のちっぽけで卑屈な心を庇ったせいで、ついに歩み寄ることさえできないままに終わってしまった。
あのひとが“そんな人”ではないことは、心できちんと分かっていたはずなのに。

ふりかえれば、たったひとつ、来年これを一緒にやりましょうというささやかな口約束と。
交わしあった優しく誠実な言葉たちだけが思い出として残った。
名前のつけられない、おぼつかない関係だった。
こうなる前に何か関係性を作っておけばよかったのだろうか。
思い切って踏み込めばよかったのだろうか。
でも、それはできなかった。
オンラインとオフライン、理想と現実の垣根を越えるのが怖かった。
自信って、なんだろう?
私はいつもここでつまづく。

メッセージが来るのがどれだけ楽しみで嬉しかったか。
おはよう、おやすみ、おつかれさまをささやきあえた日々がどれだけ幸せだったか。
多くを知らなかったけれど、それでもあのひとのことを信じていたし、泣いて落ち込むくらいには惹かれていた。
友情を感じていたけれど、終わってみれば、この痛みは何だか失恋のそれに似ている。
これは恋じゃない。断言できる。
好きだったひとを失う痛みに、恋も愛も友情も関係ない。
お別れとお詫びの言葉を最後に残してくれたのは、最後のメッセージが既読になるまで待っていてくれたのは、きっとあのひとの優しさと誠実さそのもの。
だからこそ私にも同じ想いを贈らせてほしかった。
ありがとうと、ごめんなさいと、お別れしてもこの敬愛の念はずっと変わりませんと。

あのひとも何か少しは思い出を持っていてくれたらいいなと思う。
いつでも待っていますとだけしか伝えられなかったし、伝わっているかどうかも分からない。
もしも今度があれば、何も問わずに受け入れよう。
今度は少しは自信を持って、勇気を振り絞るから。
だから、今度はちゃんと、友達になりましょう。
もしも今度があるならば。