うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

カメラを持って競馬場へ。自分を幸せにするために

私の写真は面白みがない。
こなれてくるほどに思い知らされる。
性格どおり四角四面で、カメラを構えると目に見えているものをきっちり捉えねばならない焦りで頭がいっぱいになる。
その馬や人を好きなひとが撮る写真は、愛にあふれていて素敵だ。
いい写真を撮るひとはもっと自由で、柔軟で、勤勉だ。
おそらくそんな感性は持ち合わせていないから、四角四面なりに、せめて綺麗に撮りたくなった。
馬の瞳の輝きや美しい毛並み、かわいらしい耳につむじ。
彼らを見つめるひとの表情。それだけでいいのだ。
もうちょっとだけ機材の力を借りたいと素直に思った。
もともと未熟なんだからそれくらいいいんじゃないか、とようやく思えたのだ。
決意が固まってからは本当に早かった。
鞄につめ込んだデジタルカメラ一式の厚さと重さに、身の引き締まる思いがした。

朝日杯フューチュリティステークスの日が初動となった。
無敗で大舞台に挑むニホンピロヘンソン陣営の様子を撮った。
届かない標準レンズで必死に、遠目からかろうじてそれとわかる姿をとらえるのがやっとだった。
翌週の中山大障害には買い足した望遠レンズを持って行った。
小雨のなかピント合わせに悪戦苦闘しながら、アップトゥデイトの顔をひたすら撮った。
どちらも出来映えは散々なもので、「ああこれから一生勉強だなぁ、これ買っちゃったんだから。持てばいい、撮ればいいってもんじゃないなぁ」と苦笑いするしかなかった。
大変なりに、うまくいかないなりに、とても楽しめたことが自分でも意外だった。
よりいいものを手にした覚悟で、手段としてだけではない、写真撮影そのものと真摯に向き合えたのかもしれない。
まだほんの入り口に立ったばかりだったとしても。

写真も応援幕も競馬場へ通うことも、私が今していることはすべて自己満足だ。
自己満足とは、自分を幸せにする力。
そのために何ができて、何をしたいのか。
自分に自信がなくて、人の目が気になって、卑屈になって、そうすることを長らく赦せずにいた。
新しいカメラを構えたことでひとつ自らを解放できたのかもしれない。
好きなことしてもいいんだよ、楽しんでもいいんだよと。
でもそのために他人を傷つけたり迷惑をかけたりしてはいけないし、自分自身を追いつめてもいけない。
してあげる、しなきゃならないは自他のためならず。
できるとやりたいとできないの間で、時には悩んだり、諦めたり、ちょっと背伸びをしてみたり。
きっと誰もがそうして、好きなものと向き合っていく。

大好きな馬、敬愛するひと、心地のよい景色。
私の愛する競馬場。
歳をとって、足腰も弱くなって、気力も衰えて、あるいは暮らす環境や身のまわりの状況が変わったりして。
もう足しげく通えなくなったころには、生きることに追われて忘れてしまうのかもしれない。
記憶はやがて薄れる。
思い入れて、思い出して、思い込んで、すり減りながらその形を変えてゆく。
情熱だっていつかは落ち着く。
競馬へのあら熱が自然にとれて、今は穏やかな情と縁とで繋がっている。
もしもいつか忘れてしまっても。
想い出したい。
自分が愛し、青春と情熱をかけて追い求めた憧れの彼らに。
もう一度、何度でも、私は会いたい。
そのためにシャッターを切るのだ。

 

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