うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

濁さずに、茶化さずに、自分の想いはまっすぐに

もう、想いの丈をつづるのに、自虐と謙遜の保険をかけるのやめませんか。
想いがあふれてとまらないのも、今にもあふれて洩れだしそうな想いを自らせき止めてしまうのも、相当にあやうい状態。
我慢して言葉を飲み込むのは、あまりにも苦しくありませんか。
嘘偽りのない気持ちを自分で茶化したり濁したりするのは、しんどくないですか。
だから、もうやめにしませんか。自分で自分を追いつめるようなことは。

嬉しいときも、悔しいときも、悲しいときも、人は語らずにはいられない生き物です。
想いが強ければ強いほど、ちょっと打ち明けたい。どこかに吐き出したい。誰かにきいてほしい。
自分の力ではどうにもあらがえない出来事の前に、自らの無力さであったり、相手との存在の遠さだったりに打ちのめされることが、生きていれば何度だってあります。
そんなとき、感じるままに言葉をつむいでいく。

いずれ客観視して自分の気持ちを整理するため。
どこかで同じ気持ちでいるであろう誰かと分かち合うため。
ただただ想いがあふれてとまらないから。
ちょっと今は酔わずにはいられないから。
人それぞれに語る理由がある。
それは誰しもに許された自由と権利です。
「自分語りごめんなさい」「タイムラインを埋めてごめんなさい」「ポエムでごめんなさい」
ただ思ったことを語るために、このごろは何となくそういう枕詞を置かねばならない風潮すら感じます。
ある種の同調圧力かもしれません。

強くて純粋な感情は人の心を打ちます。
心のこもった言葉は多くの人を引き寄せるものです。
反応が可視化されるSNSにおいては“いいね、リツイート”ですね。
人が集まるということは、いろんな価値観が集まるということ。
みんながみんな同じ気持ちで集まってきたとは限らなくて、中にはチクッとした声ももしかしたらどこかにはあるかもしれない。
でも、たとえば100の中にもしかしたらあるかもしれない1の皮肉の可能性に怯えたり、予防線を張ったりする必要だって別にないのです。
だって、あるかもしれないということは、本当はないかもしれないじゃないですか。
あるかないかなんて、実際に言ってみなければわからない。
言われる前から言われるものとして、自分を小さく見積もって息苦しくなるのは、後悔しませんか。
小さな自虐と謙遜と遠慮とを繰り返すうちに、小さな我慢が積もりに積もって、最初からなかったかもしれない1が100にすら感じてくるようになるんです。
もしもあなたがそうなってしまうかもしれないとすれば、私はとてもはがゆい。

仮にその1があったとしても、別にいいじゃないですか。
1が10でも50でも100でも、別にいいじゃないですか。
信念を曲げてまで、いるかもしれないけどいないかもしれないどこかの誰かに先んじてごめんなさいするのは、もういいじゃないですか。
自分の言葉に責任が持てるのならば。
あなたがあなたの気持ちに嘘をつかせないためならば。
言いたいことを言う。気持ちで繋がる。
本来そういう場所だった。そういう繋がりだった。ネットって。SNSって。
だから、自分自身にとって大事なときほど、どうか本音で。
あなたがあなた自身を低く小さく丸めて抑えつけてしまうよりも、お互いにそうしたほうが、みんなきっと、ずっと気持ちがいいはずだから。
私は、あなたの心からの言葉がききたいのです。