うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

愛するものは不変なのか

競馬がつまらなくなったという。
私も正直なところ、「どう?」と問われたら「どうかな」と濁してしまう。
いわゆる“使い分け”と“乗り替わり”問題。
勝つためのノウハウが確立されたがゆえの当事者たちの決断と、見ている側の感情とのギャップとが、いよいよ埋めがたくなってきている。
大好きだった競馬が、どんどん変わっていっている。

人は変わる。
人が変われば馬も変わる。
馬が変われば競馬そのものが変わる。
この世界はめまぐるしく変化しつづけている。
よりよい理想を目指そうという努力の賜物だ。
しかし愛するものの変化を、人は受け入れられない時もある。
主観的に、感情的になればなるほど。
そしてすれ違いが生まれる。

どう感じようと個人の自由、ファンとしての自由だ。
自分ならこうする!こうあって欲しい!と論じるのも自由。
面白さに正しさも、つまらなさに正義もない。
事実はひとつだが、答えは人の数だけあればいい。

ただ、自分の思うようでないからといって誰か何かを悪く言う権利はない、とも強く思う。
変わりゆくものをすぐには受け入れられないで揺れているのと、だから誰か何とかしてよとか、何が誰が悪いと犯人探しをしたり、持てあました感情を爆発させるのとは似て非なることだ。
いくらそのままを望んでも、形あるものは遅かれ早かれ変わってゆくのだ。
愛するものは決して不変ではない。
その変化に対応するしないの決断も、理解し受け入れる速度も、人それぞれ。
だから、いま戸惑っている人を無理に諭したりするのは、その人が自由に思い感じる権利、自分なりに悩んで迷って答えを出す権利を奪うことになりかねない。

一番大事なのは自分の気持ちだ。
でも、気持ちを語るときこそ感情的にはならないようにしたい。
むやみやたらと否定批判はしない。
納得のいかないときほど、ヒステリックにならない。
誰にも何にも、自分の理想ばかりを押しつけない。
そして何よりも、自分自身の理想そのものに押しつぶされないように。
なぜなら、愛するものが不変ではないように、自分自身もまた変わってゆけるのだから。