うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

願わくば、報われる瞬間を

ランドハイパワー号が障害未勝利戦を勝ち上がった。
膝の骨折を克服し、路線変更を経ての勝利だった。
厩舎としては、じつにメイショウアラワシ号の2016年2月のオープン戦以来の障害戦勝ち馬。
シャローム号との出会いからはじまった、私と安達厩舎のジャンプホースたちとの時間がふたたび動きはじめた。

もとより入障には前向きかつ慎重。
彼らのあいだにグラッチェ、サウンドカールなどが素質を見込まれ、果敢に挑戦しては厚い壁に阻まれていった。
ジャンプレースは平地競走とは違い、スピードよりも高度な技術を求められる。
それだけに勝ち上がるのは難しい。
ほかベステンダンクは平地で返り咲く糸口に。
メイショウアケボノ、サンキューらは実戦経験こそないものの調教に障害練習を採り入れていたようだ。

私が安達厩舎の管理馬たちを応援するのは、師が、度重なる落馬負傷でいわく「モヤモヤしていた」佐藤哲三騎手と競馬を通じて苦しみや喜びをわかちあってくれたから。
その信念が言葉だけでなく誠の心からのものだと感じられたから。
のちに哲三騎手の引退によせて、「周囲に左右されない騎乗のできる、信頼のおける人間」と師は彼を評したが、それは同時にあなたのことでもあると深くうなずいたものだ。
ホースマンとしては当たり前に仕事をしているだけで、こういった挿話を羅列するのはイレ込んだ競馬ファンの勝手な思い込みに過ぎないのかもしれないが。
そのことについて、少しのあいだ立ち止まって考えていた。
競馬とのつきあいかた、馬の愛しかた、応援のありかたについて。

私は競馬を観るのには向いていない。
目に見える断片的な情報をつなぎ合わせて物語を見いだし、馬や人に思い入れて、考えすぎて、深く一喜一憂してしまう。
できることならもっと割り切って、さっぱりとした気持ちで楽しむべきなのだろう。
ギャンブルとして、スポーツとして、趣味として、そのとき勝った負けた、嬉しい悔しい感動したでひとまず完結させて、気持ちを切り替えて次へと向かう。
ところが、好きだという感情がそうさせなかった。
自分自身でさえもてあますのだから、この気持ちはさぞかし重たいのだろうと気づいてしまったのだ。

この感情は、ずっといい方向に働いていた。
しかしメイショウアラワシとの別れで真の壁にぶち当たった。
彼を失ったこと自体は受け入れられたが、彼を想うがゆえに起こした行動や発した言葉が、どこかで誰かの心に爪を立てたのかもしれない。
重たさのあまり負担になったのではないかと疑わずにはいられなくなった。
いつまでも割り切れず、自分で自分を赦せずに気持ちの折り合いを欠き、こんなふうに自責の念に駆られるような愛しかたは、自身にとっても想いを向けられる側にとってもよくないと、今までどおりに競馬を観ていくことが怖くなった。
後悔ではない。
好きなものは好きで、すべて考えに考えたうえでのことだったから。
だからこそ、大好きな競馬の中で答えを見いだし、納得をして立ち直りたかった。
おそるおそるレースを見つづけた。
悩みながらも応援はつづけた。
そしてようやく、ランドハイパワーの勝利に光明を見た。
嬉しくて、幸せで、抑えつづけてきた声をあげずにはいられなかった。

この気持ちはこじつけだろうか。
思い込みではあるのかもしれない。
だとしても、だとすれば、なんて幸せな思い込みだろうか。
少なくとも私の中ではすべてつながっているのだから。
どれだけ知りたくとも、ひとの心はわからない。
でも、自分自身の気持ちならわかっている。本当はどうしたいのかも。
師の言動はいつでも思慮に満ちていて、やわらかな中にも毅然とした強さがあって、そんな彼らの仕事はいつだってかっこよかった。
彼らにとっての当たり前がかっこいいのだ。
オーナーとの協議のうえ、アナザープラネットとジャズファンクを引き受けたのもそう。
お金や損得勘定だけではない、ひととの縁やつながりを大切にするがゆえの決断だろう。
彼らの手がける馬たちはかっこいい。
だからこそ勝利へ向けて邁進する姿を、願わくば報われる瞬間を見たいのだ。
それが私の、はじめからずっと心の中にありつづけていた答えだった。

 

 

追記。
同じ気持ちで応援している厩舎がもうひとつ。
言わずと知れた佐々木晶三厩舎。
こちらはアップトゥデイト号との物語。