うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

カメラを持って競馬場へ。

開催が終わり、日が暮れてひと心地ついたころ、ぼちぼち風呂も晩御飯も済ませた頃合いだろうか。
競馬場から帰ってきたひとたちの思い出がツイッターのタイムラインにならびはじめる。
思い思いに撮られたそれぞれを眺めながら今日一日の出来事をふりかえる時間が好きだ。
私もまた、気に入ったものが撮れたときはコメントとともにツイートする。
カメラを手にするようになって自ら撮る喜びを知った。
これまではひとに分けてもらっていた思い出を、自分の目と手で自由に切りとっていける至福を日々感じている。

私が初めて買った旧型のデジカメにとって、競馬場はあまりに広く遠すぎた。
だからというわけではないけれど、最愛のジョッキーの姿はほんの数枚しかおさめられていない。
今にして思えば若気の至りでしかないのだが、あまりに敬愛の念が強すぎてレンズ越しでさえ畏れ多くて、そしてなにより恥ずかしくてシャッターを切れなかったのだ。
そんななかで奇跡的に撮っていた数少ない習作を挙げてみる。

 

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 パドックを周回するプロヴィナージュと佐藤哲三騎手の姿が、ものの見事にピンボケしている。
馬のからだが途切れていたり(とんでもない!)、ひとの頭が入っていたりと(これまたとんでもない!!)、ただ撮るにまかせただけの写真ではあるが、下手くそなりに、人混みの隙間から苦心して撮りたかった理由がありあまるほどにあった。
私を彼と引き合わせてくれた彼女は、これからも競馬を好きでいるかぎりずっと私の最愛の馬でありつづけるだろう。
出来の大変よろしくない写真でも、今より幾分か若かった自分があのとき勇気をふりしぼって撮ってきたものがこうして確かなかたちで手許に残っている。
その事実に心が慰められる。
眺めているだけで、つい昨日のことのように胸が熱くなる。
だから新しいカメラに買い換えた。
昨年の初夏のころ、ふと思い立って福島競馬場へ経つ直前に。
もっとちゃんと撮りたいと思った。
大好きだった彼も彼女もターフを去って久しかったが、彼と彼女を好きでいつづけたからこそ繋いで繋がれて今もなお広がり、繋がりつづけている縁を大切にしていきたかったからだ。

目の前にいることが当たり前だったときは、自分の目と心こそがもっとも優秀なカメラだと信じて疑わなかった。
しかし記憶というものは、何度も取り出したり眺めたり仕舞ったりを繰り返すうちに色合いや手触りが変わってゆくものだ。
想いという補正を加えながらかたちを変え、美化され、あるいは脚色され、やがて本来の姿から遠ざかり、曖昧な輪郭になってゆく。
文字が示すとおり、思い出として昇華されてゆくのだ。
思い出は思い出として美しいものに変わりはないけれど。
目の前からいなくなったことで、人間は忘れゆく生き物であることをあらためて痛感すると同時に、記憶を呼び起こすためのたしかなものを残したいと思った。
私は想いこそ文字にしたためているが、それは限りなく純度の高い主観でしかない。
呼び水とするにはそのとき起こったありのままを客観視できるものが必要不可欠。
なにものにも左右されないたしかな目が要る。
若さに驕った思い込みをあらためるところから、第二幕がはじまった。

二代目にして今の愛機はカシオ製のコンパクトデジタルカメラ
高機能、小型、軽量を重視した、いわゆるコンデジと呼ばれるもの。
もう少し頑張ればミラーレス一眼カメラに手が届かないこともなかったが、悩んだうえであえてこちらを手にした。
カメラを持って競馬場へ行くのか、写真を撮りに競馬場へ行くのか。
ここが分かれ目だったのだろう。

私の競馬場での一日は多忙を極める。
パドックスマートフォンのなかの馬柱を見比べながら予想をし、マークシートを塗って発券機で紙の馬券を買い、本馬場でレースを観戦し、ことによっては払い戻しをしてから、そしてまたパドックへと引き返す。この繰り返し。
さすがに途中で休憩を入れるものの(このごろはUMAJO SPOTでひと息ついている。とてもありがたい)、朝から最終までほぼ立って歩きながら一日を過ごす。
現地へ足を運んだからにはライヴ感を味わえるだけ味わい尽くしたいからだ。
とにかく体力を使うので装備は最軽量で臨む。
帰りの電車にようやっと乗り込んだときには心身ともにくたくたに疲れはてている。
寄る年波には勝てない。

もしも、さらにここにずっしりと重みのある高価な機材が投入されたら…
と、幾度となく想像してみたのだ。
もちろん実際に手にすれば撮ることを純粋に楽しめるに違いない。
シャッターを切ればより綺麗な画が一瞬にして切りとれる。
そのための修練もいとわないだろう。
楽しくないわけがない、嬉しくないわけがないからだ。
しかし競馬場で納得いく写真を撮るということはやはり、ただ手遊びで撮りたさに任せて撮るだけではない、撮りたいものを撮るための下準備だとか努力だとかがある程度必要になってくる。
真摯にとり組もうとすればするほどに入念なものになるだろう。
好きな馬やジョッキー、陣営の様子を最高の構図でとらえたい。
そのためにはまず撮れるポジションを確保しなければならない。
レースのグレードによっては開門前から並んだり走ったり場所取りをしたりするのだろう。
それほどでなくとも、フレームの内にギャラリーは極力入らないようにしたい…
もしも自分がこれらを完璧にこなそうと思ったら、今ある楽しみのいくつかをあきらめなければならなくなる。
人混みのなか重い精密機械を身体から下げて、撮ることに集中しながら馬柱をにらんだり、マークシートを塗ったり、小銭を出して馬券を買い求めたり、パドックから本馬場からと軽快に歩きまわれるとはおよそ思えない。
できたとしても、どれもがなにかしら中途半端になってしまうだろう。
そこまでしなくても撮ること自体はできるのだろうけど、自分はくそまじめで融通がきかないので撮る楽しさを追求するあまり、やるからにはとことん徹底したくなるに違いない。
いっそカメラに傾倒する道もあるが、しかし私の楽しみは競馬のなかにこそあるのだ。

私にとっての競馬というのは、目の前の馬とひとであり、予想と馬券であり勝ち負けであり、レースでありスポーツであり、ドラマであり物語であり、そのあらゆる全ての結果である。
思い出として残したいものは全てそこから生まれる。
覚えていたいからこそカメラを手にとった。
手段であり、目的ではない。
だからコンデジを選んだ。
要するに、競馬のなかの全部を選び取りたいのだ。
とんでもなく不器用なくせに欲張りなのだ、私は。

というのはあくまで自分基準に考えた場合の結論なので、違う方法論で楽しんでいるどこかの誰かへ向けたなにかでは決してない(全てを両立できるひとも存在するだろうし)。
むしろ純粋に撮ることに特化できる、対象に没頭できる才能には憧れと感嘆を禁じえないのだ。
自分にはできないからこそ、その道を選ばなかったからこそ。
カメラは機材であり道具である。
愛機、相棒と呼ぶひともいるだろう。
重要なのは持つひとにとってどんな道具なのか、という点だ。
あえて例をあげるとすれば、画材ととらえるのか筆記用具ととらえるのか、だと私は思っている。
撮ることそのものを楽しみ、無機のなかで有機を、揺れ動く感情のうつろいを巧みに切りとれるひとにとって、カメラは絵筆なのだろう。
真実、すばらしい写真は絵画に勝るとも劣らない芸術となりうる。
さしずめ私にとっては記憶を書き留める万年筆といったところ。
事実を記録するだけなら造作もない。
しかし早く簡単に文字を書けるからといって、ただただ書きなぐるのではいかにも味気がない。
筆記用具にも正しい持ち方、使い方がある。
綺麗な字でしっかりと、きちんとした文章をしたためるにはやはり日ごろの精進が必要。
感性を研ぎ澄ますことも大事。
ペンや筆だって使い方次第で画を描けるのだ。
そのために今持っている愛機を理解し、腕を磨き、大切に使いこなしていきたい。
楽しみながら、できる範囲で。
そうして撮れたものは愛おしい記憶の元であり、いち競馬ファンとしての観戦記録であり、時が経っても決して忘れたくない思い出であり、永遠の習作でありつづける。

競馬が好きだ。
競馬場には会いたい馬とひとがいる。
憧れてやまない景色が無限に広がっている。
だから明日も私は、カメラを持って競馬場へ行く。