うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

カメラを持って競馬場へ。 誰のために、何のために撮る

馬のつむじが好きだ。
ぽつんと額に渦を巻くやわらかそうな毛の流れを見つけると、指で触ったり、撫でてみたい衝動に駆られる。
自在に動くかわいらしい耳も好きだ。
濡れたように輝く大きなやさしい瞳も。
写真におさめるようになってから、より馬を美しい、いとおしいと感じるようになった。
好きな馬の美しい毛並みや瞳や仕草、ともに過ごしてる人々とのひととなりをもっとありのままに美しく撮りたいと思うようになった。
他のひとの技術も感性も優れた素晴らしい写真を毎週のように見ていると、明らかに自分のは見劣りしているし、それなりだとよく分かる。
自分の楽しみの範囲内としては充分と納得しつつも、どこか物足りなさを覚えてしまうのだ。

まずは力量不足。もっとうまくなりたい。
好きなこと、楽しいことに向上心がわくのはごく当たり前のこと。
次に得物のスペック不足。コンパクトデジタルカメラ、俗にいうコンデジの性能の限界。
今のままで充分、持っているものへの愛着を大事にしながら磨いていこう。
一度は決意したものの、競馬場へ行くたびに、実際に撮って帰ってくるたびに、上手な作品に魅せられるたびに、蓋をしていた欲求は少しずつ確実に募っていった。

持つならばNikon1シリーズがいい。
実は家電量販店へ足を運ぶたびに物色し、めぼしいものを見初めていた。
別に最新機種でなくてもいい。いっそ型落ち品でも構わない。
この安価でコンパクトなミラーレス一眼ならば値段、質量ともにそこまで重荷にも宝の持ち腐れにもならないだろうと踏んだからだ。
もっと背景をぼかしたい、いい感じに撮りたい。
うまくなりたい、もっといいものに触れてみたい。
…本当は、コンデジで撮っていることに、心の片隅でずっと引け目を感じていた。

立派な一眼レフを構え、使いこなしているひとに?
素敵な写真を撮るひとに?
好きな馬に?
敬愛するホースマンに?
それとも自分自身に?
答えは明白だった。

その道のプロになりたいとか、しかるべき人物や組織に認められたい、確実な評価を得たいという目的があるのであれば、意識を高く持つことは間違ってはいない。
だがその高い意識で他者と自分を貶したり、思い込んだり心構えを押しつけたりするのはもってのほか。本末転倒だ。
こうありたいという想いがこうあらねばという強迫観念と化して、ありもしない型枠におさまらねばならないと、いつしか自分で自分を追い込んでいたのだった。

競馬場で写真を撮るのは誰のため?
ひとのため?
誰かに認められるため?
馬のため?馬に携わるひとのため?
そんな崇高なこと、私には畏れ多くて背負えそうもない。
つたない私には自分のため、楽しむためで精一杯。

この馬が好きだ。このひとたちが好きだ。競馬が好きだ。
愛するものたちの姿を、彼らがいた風景を覚えていたい。形あるものとして残していたい。
別れはいつか必ず訪れる。誰のうえにも平等に。どんな形であったとしても。
ひとは忘れる。どれだけ嬉しいことも、悔しいことも、悲しいことも、淋しいことも、覚えていたい気持ちとは裏腹に。
だからせめて思い出せるようにしておく。
いなくなって永遠に会えなくなっても、愛したものたちと記憶の中でくらいは会いたいのだ。
そう願ってやまない自分自身の心のために撮る。
いずれ会えなくなっても、何度でも心の中で再会するための準備をする。

そしてもうひとつ。“自分のため”が時として想いを同じくするひとのためとなりうることも知っている。
だから撮ったものは共有する。
“ひとのために”と気負うのではなく、好きなものを好きだと声に出すのと同じ気持ちで。
その過程で同じ馬やひとを、競馬を愛する誰かと想いを分かち合うことができたのならば、これほど素晴らしいことはない。
だから競馬場へはカメラを持って行く。
思い出を絶やさないために。

 

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