うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

熱が落ち着いたかもしれない時に思うのは

競馬のことをつぶやいてない自分は無価値なんでは。
ふとそんなことを考えていた。
このところよく考えていた。
後ろ向きになってきてどうにもいけない。
考えれば考えるほど今の自分に対して否定的になってきて、普通にしてても萎縮してしまいそう。
とっても自意識過剰な考え方ですね。
でも、弱ってるときや自信のないときって、意味も根拠もなくそんな感じになりませんか。
私はなってました。意味も根拠もなく。

競馬への熱が落ち着いてきて、前みたいに予想と馬券で真剣勝負をすることも減ってきた。
そういうつぶやきも減ってきた。
好きな人馬を淡々と見守る感じになってきた。
自己完結的になってきて、興味のあることにしか関心がない、という状態。
タイムラインに流れてくるのでレース結果や有力どころの動向、競馬界の出来事なんかはだいたい把握しているものの、ちょっと遠い世界のお話のように感じている。
応援馬に未勝利・条件馬や障害馬が多いからというのもあるかもしれない。
楽しみ方が変わったのだ。

今競馬が楽しい!というひとはもちろん、今は別のことの方が楽しい!というひと。
そういう競馬が縁で親しくなったひとにもなんとなく引け目を感じるようになって、もともと競馬のことばっかりつぶやいてたアカウントだしなぁと、気にするくらいには気にしていた。
正直なはなし、競馬そのものへの執着は薄まってきている。
熱い濃い強い執着から、薄味の水や空気みたいな存在に変わってきている。
たぶんこの調子で私は“好きなものを好きなだけ”のマイペースで競馬を、競馬のなかの好きなものを愛でていく。
でも、今まで競馬への熱く強く濃い気持ちを声に出してきた自分からそういう競馬成分が薄まってしまったら、他にいったい何があるっていうんだろう。
そうしたら冒頭。
競馬のことをつぶやいてない自分は、無価値なんではと。

せめて一日にひとつは競馬のことをつぶやこう。
そんな日がつづいていくうちに、私のしていることは単なる“誰か”へのアピールなんじゃないかと思い至った。
“誰か”に認められるためにつぶやくのか?
違う違う。
「あのひとがこれ読んでくれてたらいいな」という気持ちで何かをつぶやくことも時にはあるけど、それはいわゆる空中リプライなんかじゃなく、自分自身も好きだったり感銘を受けたりしてたくさんのひとに伝えたいことだからだ。
私がアピールしつづけていた“誰か”はきっと、変わっていく自分をうまく受け入れられずに戸惑っていた私自身だ。
そうすることでエネルギッシュに打ち込む過去の自分自身に依存していたのだ。
人間が年齢や経験を経て変わっていくのは当たり前のことだというのに。
自分自身が変わっていく過程で、競馬は水や空気のようにそばにあって当然の、大切なものへと変わっていっているのだ。
いったいどうして、何を嘆くことがあったのだろう…

それにしても冒頭の言葉、そっくりひっくり返してみればまるで「競馬のことをつぶやいてる自分には価値がある」とでも言いたげでちょっと、いやかなり傲慢で恥ずかしい。
とても思いあがった未熟な言葉だけど、だからこそ自戒のためにこうして残しておく。
これまでどおり、価値のためでなく好きのために私はつぶやく。
素直な気持ちと正直な言葉にこそ力は宿る。