うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

常識と世界の内と外のお話

ここからのやりとりで「最低限のラインって、こちらの常識って何なのかなぁ?」というなかなか深いお話へと発展しそうになって、これはちょっと140字の羅列では書き足りないなと思ったのでこちらで補完します。
とはいえ、ただ私の考え感じることを書き出してみるというだけで、別段なにかの答えや結論になりうるわけでもないです。
何にでも通じることですが、ここではざっくりと趣味嗜好とコミュニティについてのお話になります。

常識というのは、ルールとマナーであり、その世界の中で綿々と築きあげられてきた文化であり歴史なのだと思います。
だから世界の“内の人”ならばある程度、共通の意識として共有している。
見えないようで見えているルールとマナー、良心における最低限のラインが引かれていて、ごくごく自然に認識されている。
でも“外の人”からすれば知らない、想像もつかないことだらけの未知の決めごと。
そんな彼らが「なんだか楽しそうだなぁ」といままで知らなかった世界に新規参入しようとするとき。
外の人は「どんなところなのか知りたい」と、内の人は「ここのこと知ってほしい」とまず考える。
知るとは、見て聞いて感じて学ぶこと。想像を働かせること。
この時点での見えないやりとりが不十分だったときに、気持ちの行き違いが起こるのだと思います。

ひとはテリトリーをおかされたらまず恐れや不審、怒りを覚えます。
自分が身を置く世界を愛し真摯に向き合っていればいるほど、いきなり心の中に土足で上がり込まれたような、ともすれば自身をも否定し貶められたような気持ちになってしまいます。
攻撃されたと感じる人もいるかもしれません。
現代社会の現代人において趣味とはアイデンティティのひとつ。過敏に反応してしまうのも無理からぬこと。
結果、反射的に相手を侵入者、敵と認識してしまう。
来るのならまずここのことを知ってほしいのに。
でも、あなたは突然こんなことをするんですね。言うんですね。
なぜ、どうして…
と傷ついたり落ち込んだり腹を立てたり、どうにもならない行き場のない感情の矛先が“知らなかった外の人”に向かっていってしまう…
内の人からすれば全部わかっている当たり前のことだから「なんでそんなことも知らないんだ、勉強が足りない、浅はかすぎる!」という憤り。
初めての外の人からすれば「知らなかったこと間違えたことは悪かったけど、そこまで言わなくても…。だったら教えてくれたらいいじゃないか!」という、お互いの言い分のぶつかり合い。

でも、みんながみんな“間違ったこと”や“知らなかったひと”をつるし上げたり、断罪したいわけじゃない。
故意に認識を誤ってよからぬことをしたいわけじゃない。
内の人は外の人を拒んで締め出したいわけでも、外の人は中の世界の常識をないがしろにしたいわけでもない。
かみあわなかった同士でいつまでも喧嘩をしたいわけでもない。
大切なのは、お互いに見て聞いて知って感じて、想像を働かせること。
いま内にいる自分も、外へ出て別の世界へ行けばなにも知らない新規参入者となりうること。
知らない世界へ足を踏み入れることとは、まずその世界のルールとマナーと良心に触れること。

で、最初の話に戻すと“最低限のライン”ってなんだろう、どこだろう…
その世界のしくみや趣旨を理解し、よくよく学んだうえで自分なりに想像してみて、これなら誰か何かに迷惑をかけたり不快な思いはさせないだろう!というところ。
…じゃないかなぁ、と私は考えています。
とってもシンプルなことだと思いませんか。
うまくやっていきたいじゃないですか、内も外もなく、同じものを好いて楽しみたいひと同志なのだから。
そのために常識って要るし、在るんじゃないかなぁって思います。