うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

いざ新潟へ。ファンは勝手に好いて追う。

今年はメイショウアラワシ号が連れていってくれた。 
特別登録をしていた小倉サマージャンプを回避したのち(相手関係や鞍上の調整上の判断と思われる)、新潟オープン戦をトップハンデの64キロで僅差の4着と善戦。
その先にいよいよ見えてきたのは、悲願の重賞初タイトルだった。

しかし結果は案外。
前走から4キロ減で臨めると大いに期待して決戦のときを迎えるも、二、三番手追走からしぶとく粘りこむという持ち味が生かしきれず、二周目に入ったところではすでにポジションをずるずると後退させていた。
前、前のスピード勝負で決まる順まわり、置き障害メインの新潟コースにおいて、厳しい位置どりと立ち回りなのは明白。
嫌な予感は的中し、メイショウアラワシはついに見せ場なく8着に沈んだ。
そのはるか前方で4歳牝馬のグッドスカイがゴール板を鮮やかに駆け抜けていった。
彼女の手綱をとっていたのはくしくもアラワシの主戦、森一馬騎手だった。

いろいろと複雑に悔しかった。
ほぼ何もできずに終わってしまったこと。
前走とはまるで別の馬のようだったこと。
主戦騎手がこの馬でなく他のお手馬とともに目の前で栄光を掴んだこと。
そもそもメイショウアラワシはスピード勝負よりもタフなコース向きの馬だ。
置き障害よりも中央の高い障害向きの飛越巧者。
いわゆる末脚勝負、平地力でねじ伏せるタイプではない。
ここ新潟で思うようにいかないかもしれないということは、予想という範疇で考えればなんら不思議はなかった。
現に5番人気というオッズが顕著に示していた。
にもかかわらず、私は期待した。
今の彼ならば不得手を克服するだけの力を発揮できるはずと。
きっと期待しすぎていた。勝ち負けのイメージしか持ってこなかった。
それだけ信じて期待をしたのだ。

パートナーの森騎手は乗れなかったが、元主戦の植野騎手が前走から調教からしっかりと付き合ってくれた。
そのことが嬉しくも頼もしくもあった。
これは乗り役としての優劣云々の話ではない。
昨年の春、林騎手の負傷によりアップトゥデイトの鞍上が慌ただしくスイッチした際にも感じていたこと。
惜しさや無念はあったが、たとえ万全の状態でなくとも最善を模索する陣営を、最後に命運を託された人馬を信じて期待できた時の気持ち。
ジョッキーをメインに競馬を観ていた頃とはまた違った感情が私の中には芽生えていた。

想っては振られ、追いかけては逃げられ、届くかにみえた目の前の勝利にはするりとかわされ、ときに夢叶い、ときに夢破れ。
一頭の競走馬を応援するのは、なかなかこちらになびかない奔放な男にひたすら恋い焦がれるのに似ている。
好きな馬を応援する理由なんて「この馬が好き」それだけで充分だ。
しかし彼らは競走馬、ただ「かわいいかわいい」ではなく、プロのアスリートとして接する。
それは好きな馬に携わる人間も一緒に信じることでもある。
たとえ期待していた結果が思うようでなく落ち込んで悔しくても、死力を尽くして戦った彼らに対して怒ったり責任を求めたり失敗だ間違いだと決めつけてかかるようなことはしたくないし、夢にも思わない。思ったことなど一度もない。

ファンとはあくまで勝手なものだ。
ただ勝手に好きになって、勝手に期待して、勝手に応援しにいって、勝手に喜んだり悔しがったりするだけ。
応援も遠征も馬券も“してあげている”ではない、したいから勝手にする。
好きにするからこそ、勝手を押しつけない。
「連れていってくれた」という言い方を私はたびたびしているし、心の底からその通りだと思っている。
しかし相手に決断を委ねているのでも、誰か何かに強制されているのでもない。
この言葉は感謝と敬意と愛情ゆえの表現だ。
たくさんの人馬の中から、縁あって、見つけて出会って好きになって、掛け値なしに応援したいと思ったから、勝手に好いて追ったのだ。

気づいたら今年も新潟にいた。
次はどの競馬場へ連れていってもらえるのか、きたる季節へ向けてもうすでに胸が躍っている。
好きな相手を信じて期待し、夢を託してその背を追ってゆけるのは幸せなことだ。

 

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