うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ほどよく楽しむ大人の遊び、競馬

競馬はギャンブルだ。
ジョッキー横山典弘がUMAJOへのメッセージカードに記したとおり。
いや他にも素敵なことがあるのだと認知されてほしい気持ちはあるのだけど、ギャンブルとしての競馬を曖昧に覆い隠したり、ギャンブル抜きにした競馬をことさらに神聖視するつもりはない。
私は予想して馬券を買う。
勝負に勝ったときの天にも昇るような心地と、負けたときの半身をもがれるような痛みを知っている。
金とは、勝負とは、抗いがたい魔力なのだ。
かつての私はこれに怒っていた側の人間だった。

ギャンブルは無駄で効率の悪いものという認識しかなかった。
若さゆえ偏見というフィルターを通して上辺だけでしか物事を見ることができず、自分ひとりの世界で憤りつづけていた。
その偏見で凝り固まっていた足元が崩れたとき、自分の見ていた世界の狭さと、一方的な頑なさを思い知った。
本当の世界は無駄なものであふれ、いびつに光り輝いている。
一見すると生きてゆくには必要のなさそうな娯楽や文化たち。
それこそが豊かさの証だ。
余白で何かを愛でたり嗜んだりして楽しむのは、ひとが人間である証だ。
人生に行きづまり、生きることに疲れ果てていたときには見えなかった。
私を人間に戻してくれたのは、世界の美しさを教えてくれたのは、競馬だった。

これは運よく“こちら側に来ることができた”人間の言うことなので、話半分にでも聞いてほしい。
ギャンブル依存症患者がゼロにでもならないかぎり、ギャンブルである競馬を叩く人間はおそらく絶えない。
たとえゼロになったとしても重箱の隅をつつかれつづけるだろう。
生死観がひっくり返るような強烈な体験でもしないかぎり、人間が自らの価値観をあらためるのは難しい。
ギャンブルへの嫌悪と憎悪、偏見の感情はそれほどまでに強いのだ。
そして、金と勝負の魔力も負けず劣らず強い。
もしも私に子どもがいるとしたら、馬券を買える年齢になって、自分で働いてお金を稼いで、物事の善し悪しが判断できるようになってから競馬場へ行きなさいと言う。
今は小さい甥と姪にせがまれるようなことがあるとしたら、そう諭すつもりだ。
毒だからではない。悪だからでもない。
早すぎる、強すぎるからだ。
私がほどよく遊べているのは、理性があり、余裕をもってブレーキを踏める大人だからだ。
子どもにもきちんと説ける両親は連れて行ってもいいと思う。
その辺は個人の方針に委ねられるべきことだ。

ギャンブルが悪いのではなく、依存症という病気が問題なのであって、でも病にかかる人間が100悪いのでもなくて。
極力そうならないようにする仕組みが必要。セーフティーネットが必要。
しかし救済するシステムがあっても度を超す人間はギャンブルに限らずどの分野にもいる。
度を超した状態が病気にカテゴライズされるかされないかでいうと、ギャンブル依存症はやはり病気なのだ。
危機感を抱いたり、糾弾する人間がいるのも当然といえば当然だ。言い分と言い方くらいは選んでもらいたいが。
いまJRAはさまざまな試みに取り組んでいる。
一番はもちろん顧客のためだが、次に全方位へ向けた誠意の姿勢が必要とされているだからだろう。
できるかはわからないがやらないよりマシ、いや、やらねばならない。
守らねばならない。自分たちの居場所を、権利を、文化を、この世界に携わる人馬を。
競馬を愛する私たちは何をすべきだろう。何ができるだろう。
ファンにできることは、実はそう多くない。
戦ったり怒ったりするのが逆効果だとすれば。
本当に小さいことだけれど、各自お行儀よく遊ぶ、でいいんじゃないだろうか。
競馬はギャンブルだけど紳士淑女のスポーツだねって、同じことならば言われたいではないか。
私は言いたい。
競馬が好きだから。