うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

『馬が好き』の内訳

ひとことではいいあらわせない。

もともと私は騎手応援メインの人間だったが、敬愛する唯一無二の方が現役を退いてからは競馬との向き合いかたが変わった。
人と馬がいる、だったのが、馬がいて人々がいる、になった。
馬の傍には陰に日向にたくさんの人がいる。
ジョッキーのような華々しい存在だけでなく、生産者、育成、オーナー、厩舎陣営、などなど…
競馬の主役は馬。
たくさんの人々に送り出される競走馬は、いわば愛と情熱、技術と叡智の結晶だ。

馬への愛は、相手に見返りを求めない愛である。
競馬の世界では見返り=払い戻しだが、金だけがすべてではないのだ。
期待をこめて馬券を買うものの、基本的にその金は馬と自分自身の信じる気持ちへとなげうったもの。
寺山修司風にいえば“財布の底をはたいて自分を買っている”。
ファンが馬と邂逅できる唯一の場所が競馬場(ひとによってはそれ以外の場所にも伝手はあるのかもしれないが、大多数にとっては、という意味で)。
そこは馬にとっての晴れ舞台、ピカピカに磨きあげられて馬は輝き、人は馬に信頼を寄せる。
柵を隔てて見ている自分も、彼らを信じている。
信頼を形にあらわしたい。態度で示したい。
一緒に戦いたい。苦楽を分かち合いたい。
その気持ちを具現化する手段のひとつが、馬券だ。
真剣にレースを予想するのとはちょっと違う意味合いの投票を私にさせる馬が、いるのだ。

馬は自分を見つめ返してはくれないし(ごくまれに目が合うことはある)(と思いたいだけ)、馬とは触れ合うことはできないし(誘導馬ならお出迎えのときに鼻面を撫でることはできる)、馬とはデートできないし(何を言ってるんだ)、決して自分のものにはならない存在だ。
でも、なんか、そんなんじゃないのだ。全然。
自分のものにしたいわけじゃない。
自分の思ったようにどうにかなってほしいわけでもない。
厳しい調教にたえてレースに出走している!○○号すごい!えらい!! に尽きるのだ。
無事に回ってきてくれればいい、一目見られればそれでいい、元気でいてくれればいい、ただいてくれればいい…
綺麗事なのかもしれない。
強者を決する競走としては矛盾しているのかもしれない。
でも、縁あって見初めた馬が人に愛されて、幸せで、安らかであってほしい。
願わくば、また会いたい。
その繰り返しだ。

ファンは見えている部分しか見えないから、見えない部分は断片的な知識や見聞、想像に頼るしかない。
それが偏ってしまってはいけないし、強く想うがゆえに願望を押しつけることになってもまずい。
だから、ただただ遠くから見守って、無事と最善を祈る。
○○号が好きという感情はもしかしたら、○○号の実際の姿、つきつめれば馬という生き物の実態を身近に知らないがゆえの思い込みなのかもしれない。
夢や縁を見いだしながら、当事者にとってはまったく見当違いのことを言っているのかもしれないと、近頃はふと思うことがある。
私が競馬場で見て受けとっているものは綺麗な上澄みなんだろう。
それも真実のひとつだ。
自覚は必要だと思っているが、卑下もしない。
彼らの競馬へ向かう姿を見て感じたときめきに嘘偽りはないのだから。
知らないから、知りたい。
見える精一杯のなかで、見ていたいのだ。

ごめんなさい、夢を見させてもらってます。
応援させてくださいね。
好きなんです。いとおしいんです。
今はこういう気持ち。