好きな馬がこの世を去った。
悲しみの中からいまだ立ちあがれずにいるのは、想いを伝えてしまったからなのかもしれない。
想いを伝えるということは、相手の心の領域に踏み込むことなのかもしれない。
彼に会える日が待ちどおしくて手紙を書いた。
想いは奇跡のように伝わり、想いとして返ってきた。
それから少し経って、彼はこの世を去った。
予定していたレースへの出走はかなわずに。
私は傍で彼を愛する人たちの心を踏み荒らしてしまったのかもしれない。
余計なもの思いを増やしてしまったのかもしれない。
いたずらに心を揺り動かすべきじゃなかったのかもしれない。
書かなければもっと後悔していた。
でもそれは私の勝手な想いでしかない。
あの気持ちは本当に伝えてもよかったんだろうかと、まだうなずけずにいる。
実際に馬に携わる人にはきっと悲しんでいる暇なんてない。
すぐにでも順番を待っている馬がやってきて、日々忙しく立ち働くことによって、別れた馬たちに報いている。
柵の外から見ているだけの自分の悲しみなんて、いかにもおこがましくて軽々しい。
今こそ彼らの応援に行くべきだとも、行きたいとも、行けたらとも思う。
でも、今は競馬がつらい。
愛して失うのがこわい。
知るたびに想いが深まって、今は競馬が怖くなっている。
愛で重たくなって、身動きがとれなくなって、ひとりで悩んで苦しんで、誰にも言えなくて。
こんな好きかたをする私はきっと“向いていない”。
けど縁あって出会って、好きになってしまったのだからとそのたびに覚悟を決める。
私は、競馬を通して誰かを愛したい。
出会った馬を好いて、愛でて、傍にいる人を信じて、尊敬したい。
こんなにも幸せだったのは自分自身の気持ちに嘘をつかなかったからだ。
そうして何度も何度もつらい別れや喪失を乗り越えてきた。
愛がなければ意味がない。
それを自分で分かっている私は、必ずもう一度立ち直って立ちあがる。
今はもう少しだけ、大好きだった彼のことを想いながら、心の整理をする時間が必要なだけで。
会いたかった。
顔や体を撫でたかった。
そんなことは決してかなわない遠い世界の憧れの彼だから、ただ柵の外からエールを送れるだけでよかった。
それもかなわなくなって、新しいカメラでかっこよく撮ってあげたかったなぁと、三年間撮りつづけた拙い写真を何度も何度も見返しながら想っている。
今年は彼の行くところに全部ついていくと決めていた。
たびたびだと気持ちの負担になりそうだから、次にお便りするのは彼が勝ったときか引退が決まったときにしようと決めていた。
そして今、ペンをとる手が迷っている。
新たに贈ることのできる彼の写真はもうないし、今度こそ私の勝手な想いでしかなくなる。
それでも、今だからこそ、伝えたい想いがある。
彼はもういない。
しかし馬柱の中に、写真の中に、記事の中に、手紙の中に、まるで生きているかのように存在している。
ふとそれらに触れた人もまた、思い出の中から彼を見出すことができるだろう。
書いて残すことの意味と意義は、そこにこそあるんじゃないか。
なら、想いを伝えることだって。
彼を、あなたがたを応援していますといいながら、励まされていたのはいつも私のほうだった。
ペンをとったら、偽らずにそう伝えようと思う。