うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

趣味と生活と人生と、今のひとりと自由のこと

これくらいの年齢になると、周りはどんどん“話がついて”いく。
人と出会い、恋愛をし、交際を経て結婚や出産をし、人生における確かなものを築いていく。
俗にいう立場とか役割とか社会的地位といわれるものを。
私も、たまには競馬場よりも婚活パーティーへ行った方がいいんじゃないのか。
ふと感じざるを得なくなる。
ひとりの自由を謳歌する楽しさにまとわりつくを後ろめたさを、感じずにはいられなくなる時間が年々増えていく。

『じゃあ訊くけど、婚活パーティー、行きたいか?』
自分の心に問いかけてみれば、是が非でも恋愛したい!結婚したい!というわけでもないから困る。
いや、困ってないのだ、全然。
強がりでも何でもない。別に行きたくない。たぶん向いてないし。
どうしても今すぐに交際相手が欲しいわけでも、家庭を持ちたいのでも、子どもを産みたいということでもない。
強いていえば、ちょっとは世間並みの大人の女性として後ろめたくない生き方ができていればよかったなぁ、とは思う。矛盾するけれど。
私の気ままなひとりの人生は普通、平均と比べれば決してベストとはいえない。
『親兄弟、親類縁者を普通に安心させてあげたかったなぁ。』
でもそれは親しい人たちを思いやったうえでのベストであって、もうひとつ踏み込んでいえば承認欲求のかたちでもあるのだろうし、そのために自己を犠牲にしたり、他人の人生や社会制度を利用するのは本来の趣旨からはまるで外れている。

趣味にかまけて恋愛や結婚ができないだなんて、いかにも趣味のせいにしているみたいで、できれば言いたくないし、思ってもいない。
現に趣味を介してゴールインした人をたくさん知っている。
世の中にはどちらの“好き”も両立させている人がたくさんいる。
それができない自分って一体何なんだろうと、ときどきちょっと考え込むだけで。
趣味の中で活路を見いだそうという気持ちは、私の中にはない。
趣味を介して出会った人は、考えやこだわりは違えどみんな同志で友達だ。
今も昔もそういうふうに感じながら楽しくやってきた。
だからひとりでも大丈夫なんだろう。
これまでに心惹かれた人は、探そうとして見つけたのでも、作ろうと思って見繕ったのでもなくて、いつも思いもよらぬところからあらわれた。
ただあいにくと、その相手とは最終的にはうまくいかなかった。
“好きな人”は趣味を同じくする人たちの中からはあらわれなかった。
無意識のうちに、そうならないようにしているのかもしれない。

割り切ってはいても、
(この歳で何やってるんだろう)
(誰かに何かに世間に、いつもなんとなく後ろめたい)
と感じてしまうのは、自分という存在が根本的に“何も成さない、生み出せない、貢献できない”コンプレックスからやってきている。
私には社会的、家庭的な役割や重責も特になければ、こんなにハマってる競馬で“食ってる”わけでもない。
誰にも迷惑をかけず、自分で自分をかろうじて食わせて、趣味を生きがいに好きなことを楽しんでいる。
それだけの可も不可もない、居ても居なくても大差ない、毒にも薬にもならない人間。
こんな私が日々の瞬間を全身全霊で闘っている人馬を応援するなんて傲慢なのでは、と我に返りそうにもなる。
もしも、自ら築いた家庭と趣味とを両立していれば。
“好き”を極めて競馬ライターの端くれにでもなっていれば、この後ろめたさは帳消しになっていたのだろうか。
でもそうなっていれば今度はきっと『私は実際に馬に携わってるわけじゃない。何て無知で無力なんだ』などと悩みはじめるに違いない。
きっと、ないものねだりできりがないのだ、人生っていうものは。
豊かに生きようとすればするほどに。
今の私の『何者でもない、何もできない』と自分を責める言葉や感情だって、きっとどこかで誰かを追いつめる。
好きなことを好きなように楽しむ自由を手にしているのだから。
私の葛藤もまた、どこかの誰かにとっては贅沢な悩みなのだろう。

仕事をする。
学校へ行く。
自分を食わせていく。
家族や友達と仲良くやっていく。
誰かを思いやる。
好きなことを楽しむ。
自分自身を大切にする。
みんな簡単なようで難しい。
生きていてがんばってない人なんてどこにもいない。
そして、心にもないことをがんばれるほど人は強くない。

もしもいつかの未来で、歳をとったり趣味から遠ざかったりして、まだひとりだったとき、淋しいなってあらためて思うのかもしれない。
でも、自分が決めた道だからたぶん後悔はしない。
だからもう、ないものねだりや無い心配はやめにして、必要になったとき必要なだけがんばろう。