うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

その執着、愛に戻そう

ポールアンドジョーのアイシャドウに一目惚れをした。
キラキラしたコスメを見ていると気持ちが華やいでくる。
シャネルのルージュ、クリニークのチーク、コスメデコルテのルースパウダー。
ずっとずっと欲しいなと憧れてきたものたち。
自分には宝の持ちぐされと遠くから眺めるだけだったデパコスの名品たちを、少しずつ集めて使ってみたいと思えてきた。
でも同時に「これ買うお金で週末の小倉へ行けちゃうよ?」と逡巡してしまったとき、ああわたしいっぱいいっぱいだなぁと認めざるを得なかった。

今の私には競馬しかない。
競馬しかないのに、なんにもない。
わけもわからず苦しいのは、自分の中身が空っぽだからだ。
空っぽの器に、ただひたすらに好きなものばかりを詰め込んで、無理やりに心を満たそうとしているからだ。
好きな馬をうしなってから、私の心にはなにものにも埋められぬ穴があいてしまった。
それでも競馬からは離れられなかったし、離れたいとも離れようとも思わなかった。
もしかしたら一時的にでも離れるべきだったのかもしれない。
しかし今離れて本当になんにもなくなってしまうのが怖かった。
見ていたい。かかわっていたい。好きだから。
たとえ“好き”の中で傷ついても苦しんでもかまわない。
その一心で“好き”を追い求めつづけてきた。
嘘も迷いもなかった。

この世から突然いなくなった“彼”と、ターフを去り新天地へと旅立っていった“彼”を想うあまり、私の愛は苦しい執着と化してしまった。
愛にかわるものを漁りつづけているうちに、つらい別れからいつまでも立ち直れないでいるのを、自分の心を満たせないままなのを、好きな馬たちのせいにしていたのだと気がついた。
私が一番したくなかったことだった。
悲しむのはいい。
惜しむのも、懐かしむのもいい。
こだわってとらわれつづけるのは違う。
いつまでも“彼”らによりかかって、依存をしていてはいけない。
最愛の“彼”らを、一方的な執着から手放して自由にしてあげなければ。
閉ざされた世界と価値観の中ですこやかな愛は育たない。
なにより、こんな愛し方きっと誰も望んでいない。
“彼”らも、彼”らを傍で愛したひとたちも、私自身も。

“好き”にしがみついている間、週末まで息をひそめて堪えながら、週末ごとに息継ぎをしてかろうじて生き長らえているみたいだなぁと感じていた。
もちろん息をひそめている時間も自分なりにがんばっているのだけど、大半の日常でありながらかりそめの時間をやり過ごしているかのようだった。
自分の人生を受け入れられていなかった。
心の支えにするのと、べったりとよりかかるのは、似て非なることだ。
「これさえあれば」だと、なんにもなくなる。
いずれ好きでなく依存に、愛ではなく執着になってしまう。
自分にとっても誰にとっても重たい想いとなってしまう。
愛を注ぐ対象や情熱をうしなったら、穴があいて空っぽになってしまう。
本当に好きならば、好きなものを逃げ場所にしつづけてはいけない。
日常や生活と向き合えてこそ“好き”を楽しめるのだ。
朝起きて、服を着て、メイクして、仕事へ行って、ひととかかわって、ご飯を食べて、よく眠る。
その中で“好き”以外のささやかな喜びを見いだすのも、豊かに生きるということなのだろう。
なけなしの小遣い切りつめて遠征に全振りして小倉へ行くのもいいけれど、たまにはがんばってる自分へのご褒美に背伸びしてデパートにコスメ買いに行ったっていいのだ。

ちゃんと生きよう。私は私の人生を。
それができてこそ、誰か何かを愛せるのだ。
好きなものを好きでいられるのだ。
柵の向こうの夢を追い求めるだけでなく、今ここにありつづける自分の現実をしっかりと暮らしていこう。
懸命に生き抜いた彼らに恥じないように。