うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

認められたい欲と、うまいことつきあっていく

ツイッターでは評価が可視化されます。
いいねリツイートで。
引用だったりリプライたったり反応で。
数と言葉で、否応なしに。
ということは、心の奥底に注意深く秘めたはずの認められたい欲も可視化されるわけです。
承認欲求、と書くとなんとなく堅苦しくて良くないことのように感じてしまうので、私の中では認められたい欲です。
これがちょっとばかり大変だったりするのです。

たいそう内気な私は、うまくプレゼンもできないくせに、「見て見てこれ最高でしょ!」と大きな声でアピールもできないくせに、いそいそと創ったものを取り出しては広げてみて、「これでもいいですか?世に出して置いといても大丈夫でしょうか?」と人の顔色をチラチラとうかがうような気持ちになってしまいます。
そのときの心のありようが、我ながらとっても恥ずかしいのです。
ほかのみんなは曇りのない気持ちでキラキラした素敵なものを生み出しているのに、それに比べて私は前向きな言葉ひとつ生み出せない。
そんな自分を後ろめたく感じる時期がずっとつづいてました。

そりゃあ人間誰しも、時には評価されたいし褒められもしたい。
ひとりで納得して満ち足りてるのもいいけれど、たまには他人に認められたい。
そう思うのは恥ずかしいことだとずっと思ってました。
でも一番問題なのは、自分の気持ちを認められないことと、卑屈になるあまり自信をなくしてしまうこと。
そのせいで何もできなくなってしまうこと。
純粋に物事を楽しめなくなってしまうこと。
自分を赦せないことに息がつまった私は、ものを創ることもツイッターも、楽しくなくなりかけていたのです。

迷いながら悩みながらでもシェアしたいのは、知ってほしいから。
自分の気持ちを、自分という人間を、自分の好きなものを。
自分、自分、自分、その次にやっと他者や外の世界とのかかわり。
でもあえて形にしなくてもいい時もあるのかもしれないと、このごろは思ったりもします。
ツイッターやってるとどうしても、言わなきゃいけない創らなきゃいけない、発表しなきゃ共有しなきゃという焦燥感や義務感みたいなものに勝手に駆られてしまいがちなのですが。
私がつぶやこうが黙ろうが何をしようが素敵なものは変わらず素敵でありつづけるし、誰かの顔色をうかがい、ウケを狙ってものを書いたり写真あげたりつぶやいたりしても、いったい誰にどれほどの想いが伝わるのか。
認められたい欲ありきで創作すると、思った以上に欲そのものが浮きあがって見えてくる気がします。
うまく隠してるつもりでも、気持ちってひとりでに表にあらわれてくるものなのかもしれません。
そういう滲み出るものをうまく隠す術もあったりするのですが、だいたい自虐になりがちで精神衛生上よろしくない。
あって当たり前の気持ちだから、見えてもいいんです。
誰よりも何よりも自分自身の気持ちが自由であれば。
創ることや共有する喜びを感じてさえいられれば。

もしかしたら届くかもしれないなんて思いながら、きょうも私はいそいそと写真や文章を投下しています。
願わくば、この気持ちがどこかの誰かにほんの少しでも響けばいいと思いながら。
認められたい欲は、知ってほしい欲。
知ってほしい欲は、人とかかわりたい、世界とつながりたいという切なる願いそのものなのだから。