うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

愛馬からの贈り物

声がひとりでに出た。
最後の直線を向いたときでさえ達観して見ていたのに。
彼女の強さが予想をはるかに越えてきたのだ。
ゴールの瞬間、およそ自分のものとは思えない、うわずったような情けない声が漏れていた。
まさに鬼脚と呼ぶにふさわしい末脚だった。
大目標であるヴィクトリアマイルへと弾みをつけるべく参戦した京都牝馬ステークス
直前まで降りつづいた雨で渋った馬場をものともせず、並みいるライバルたちをも一蹴した。
私の愛する馬、サウンドキアラは京都金杯につづいて華々しく重賞二勝目を挙げたのだった。

これはギフトだ。そう思った。
愛するものをずっと疑わずに信じつづけられればこそ受けとることのできる贈り物が、ごく稀にある。
それが今日のこのレースだと。
祈るような気持ちで見守っていた前走はサプライズに近かった。
また少し喜びのニュアンスが違っていたのだ。
これと同じギフトをかつて二度受け取ったことがある。
ひとつはアップトゥデイトから。
春の障害王者となり、最優秀障害馬の名をほしいままにした同年の中山大障害で。
彼ならばどこまでも高く遠く飛んでゆけると信じて疑わなかった。
そしてもうひとつ。思い返せば十余年前にエスポワールシチーからも受け取っていた。
彼がジャパンカップダートを制したときに。
当時の私はまだ今ほど深く競馬を知らなかった。
それでも、あれはまぎれもなく彼からの贈り物だった。
多くを知らなかったからこそひたむきに信じることができたのだ。

競馬の難しさとままならなさを知るにつれて、やがて疑ってかかるのが大前提となり、信じることはより難しくなっていく。
天候、馬場、馬の状態、鞍上…さまざまなファクターが複雑に絡みあってレースは成立する。
理性と情を天秤にかけて、時には愛するものの弱点を掘り下げなければならなくなってくる。
競馬ファンとして私はその作業を何百回、何千回とくりかえしてきた。
愛するものを客観的に品定めする作業に少しの後ろめたさを覚えながら。
予想とは別口で応援馬券を買うようなゆるいファンにも一応それなりの矜持はあるのだ。
だが、何百回何千回の中にも、信じぬくことに一片の迷いもないレースがあった。
相手を何ひとつ疑わない、心が揺らがないだなんてそんなこと、競馬という枠を越えて人生の中にもそう何度もあるものじゃない。
だから、これはきっと、あなたを信じたご褒美だ。
そう思わせてもらってもいいよねと、涙越しにずっと彼女たちを見つめつづけていた。
死力を尽くしたサウンドキアラと最善を尽くした陣営の、無事に帰ってきたのだという安堵の笑顔がそこにはあったから。
幸せなひとときだった。
やがてかけがえのない思い出のひとつとなる、満ち足りた時間だった。

当然ながらこのギフトは、贈る側と受け取る側には何のやりとりもかかわりもない。
ただ私が強くそう思って、便宜上近しい言葉を当てはめただけのもの。
わたしたちのあいだには越えてはならない柵があるからだ。
それでも数年のあいだ私は悩んでいた。
競馬ファンとしての年月を積み重ねるほどに、目に見える美しい部分だけではなく、裏の厳しく難しい現実も知らなければと思いつめていたのだ。
無知で覚悟のない人間の気持ちや言葉なんて何もかもが薄っぺらいと、尊敬している人から見透かされるのが怖かった。
さりとて余計な詮索も干渉も深入りもしたくはなかった。
いち競馬ファンとしての譲れない矜持だった。
だから私は何もできない。ただ見ていることしかできない。
恥ずかしさと無力感に日々さいなまれていた。
いや、違う。
きっとそれこそ勝手な思い込みと思いあがりだったのだろう。
彼らは自分たちのために最善を尽くしただけ。
私はそれを見て何かを感じただけ。
しかし彼らは競馬と真摯に向き合うことで、人に夢を与えることができる。
私は彼らを通して夢を見ることができる。
競馬とは。競走馬とは。ファンとは。
きっとそういうもの。ただそれだけでいいのかもしれない。
贈り物をひも解いてようやく、彼女たちが答えをも与えてくれたことに思い至った。

顔をあげると、雨雲のあいだから差し込む西日がターフを照らしていた。
どんなときでも競馬は美しい。
でも願わくばもっと遠く、美しいところへ。
無事に帰って東京へ行こうと、ゲートが開く前につぶやいた。
その夢がふたたび叶おうとしている。
与えられた名のとおり、きらきらと光り輝くために、彼女たちはきたる5月の府中を目指す。

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