4月19日、皐月賞ウィークまでの無観客開催がJRAから発表された。
薄々はわかっていたことだ。
しょうがない。
現状を鑑みれば仕方のないこと。
開催されるだけでもありがたいし奇跡なのだ。
懸命に言い聞かせながら、いま自分が抑えがたい怒りを覚えていることに気がついた。
ふつふつとわいてきたのは、長らく忘れようとしていた憤りの感情だった。
正体不明の敵に日常と自由を奪われる理不尽さに、本当はずっと怒っていたのだ。
好きな人馬に会いに行きたかったのに。競馬場で応援したかったのに。
悔しい。悲しい。無念でたまらないと。
負けるものか。
つぶやいたら、体中から力という力がわいてきた。
いまは死ねない。
ふたたび競馬場へ行くその日まで私は病には屈しないし、周りの大切な人たちも守る。
必ず生き抜く。
絶対に負けるものか。
できることなら怒りたくないと思いながら生きてきた。
怒る前に笑って赦して、穏やかに暮らしていくのが理想だった。
でも、怒るべきときにはちゃんと怒らなければ。
自分の心を守るために。
ありのままの感情を認めて、赦して、昇華しなければ、いつか心は病んでしまう。
まず自分自身が健やかでないと、人に優しくなんてなれっこない。
笑い事じゃなくなって、笑って生きていくどころじゃなくなってしまう。
怒りたくないと頑なに願うあまり、私は心を病む道に足を踏み入れかけていたのかもしれない。
見てみぬふりをしていた事実を、こんなときに思い知らされるなんて。
現実と現状を受け止め今を肯定するのと、自分が何かを思い感じることは別口にしよう。
まずはそこから始めてみる。
つらい今の世の中を、病まずに生き抜いていくために。
抱いた正直な想いに罪を感じて、先回りして自らを罰する気持ちは確かにあった。
私はまだ元気だから。
私よりもっとしんどい人がたくさんいるから。
競馬が開催されているだけでもありがたいから。
関係者の方々の不安と苦労を思えば。
つらいのはみんな同じだから。そのみんなが我慢してるから。
もういい大人だから。
何も言えない。想えない。
そうするのはとても贅沢なことで、我が儘なのはわかっているから。
だから本音を押し込めて、口を噤んで、じっと堪えていくつもりだった。
半分正しくて、半分間違っていた。
個人の感情も可視化されるSNSの時代、綺麗で殊勝な言葉がありがたがられるのは至極当然のこと。
何かことが起これば、目に耳に心地の良い言葉がタイムラインにあふれる。
いいひとでありたいと心がけるのは誰しも同じだから。
気丈であること、賢く聞き分けがいいこと、優しく立派であることを他人に求め、自らにも課す。
まるで競うように、遅れをとるまいとして、いい言葉をつぶやきつづける。
そうしなければならない気持ちに、だんだんとさせられていく。
言葉には気持ちを安定させ、ひとを奮い立たせる力がある。
だからこそ、使い方にはちょっとだけコツがいる。
言葉は栄養剤であり、麻酔でもあり、ときに劇薬にもなりうる。
過ぎたるは及ばざるがごとし。
許容量を超えたポジティブはやがて心をひどく疲れさせる。
心が疲れると、本当につらいときに何も言えなくなってしまう。
前向きになろうとして疲れ果ててしまうなんて、あまりにもしんどすぎるから。
そうなってしまう前に。
自分の感情を、自分だけは認めて赦してあげる。
自分だけは自分の味方になってあげる。
本音を認めることは、自らをいたわること。
自分自身に優しくできてこそ人にも優しくなれる。
そうしてようやく心から笑えるようになるのだ。
悔しい、悲しい、残念だ、怒ってる。
そんなネガティブな言葉、つぶやくべきじゃないとずっと禁じつづけてきた。
でも、いいのだ、たぶん。ほんの時々なら。
別に誰か何かにぶつけたり、なりふり構わず撒き散らす必要はない。
それと同じで無理に押し込めたり、心を偽る必要だってないのだ。
気丈さや弱音は他人にアピールするためのものじゃない。
でも誰しも、どこかの誰かにちょっとは聞いてほしくって、ここにいるんでしょう。
だから私もここにいる。
そして、誰かのそういう言葉を聞けることが嬉しい。
聞いてほしいし、聞かせてほしい。
時々は、飾らない本音の言葉を。
せっかく楽しい場所で、優しい気持ちで出会えたのだから。