うまいこといえない。

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ランボー怒りのアフターコロナ

『おうち時間』推奨の一環として、過去の名作映画が放送される嬉しい流れとなっている。
「じゃあ次に何が観たいか?」という話題で盛りあがったとき、同居人からそのタイトルが挙がった。
ランボーだ。
実はシリーズ最終作がお目見えする関係で少し前に放送されていたらしいのだがあいにくと見逃してしまった。
…ところで、そういえばランボーってどんな話だったか。
うっすら覚えている。ベトナム戦争にまつわる話だということは。
ロシアがまだソ連だったか崩壊したかその記憶がまだ新しかったころに金曜ロードショーで観た。
半裸でマシンガンをぶっ放すスタローンの絶叫がやたらと印象に残ってはいるものの、なにぶん子どものころだったし、もしかしたらこの記憶も曖昧かもしれない。
何が彼をそうさせるに至ったのか、おさらいしなければなるまい。
なぜか突然そんな気持ちになった。

ランボーシリーズとは、数々の勲章を手に本国へ凱旋したベトナム帰還兵の悲劇をベースとしたアクション映画である。
二作目にあたる『怒りの脱出』は、戦後のベトナムにとり残された米軍捕虜救出をめぐるストーリー。
特命をうけた元グリーンベレーのジョン・ランボーは単身で乗り込むが、そこで耐え難い裏切りに遭う。
実は捕虜の救出など建て前で、巨額の身代金で敵国の軍備を増強させたくないアメリカ政府は、すでにもぬけの空となった収容所への形ばかりの捜索をもって「捕虜なんかどこにもいませんでしたよ!ハイこれにて終了!」としたかっただけなのだ。
かくして敵陣のまっただなかに取り残されたランボーの孤独な闘いがはじまった。
…このひとまた独りで戦うのか。かわいそうに。(前作も独りで戦っていた)

ランボーの闘いはまさしく怒りの体現である。
数々の理不尽に対し、キレ散らかして暴れまわる。
とはいえなにも好き好んで暴れているわけじゃない。
心に深い傷を負ってはいるが、彼は痛みを知り、人の心の機敏がわかる男なのだから。
そんな彼の真の敵は身内にいた。かつて彼自身が命を賭して守った祖国アメリカに。
しかし、しょうがなかったのだ。
子ども心になんでやねんと思いながら観ていたけれど、大人になった今ならわかる。察してしまう。
本作戦で彼を見捨てたCIAのマードック司令官だって国の方針に従ってるだけだし(国が正義とは限らない)、敵陣で孤軍奮闘するランボーを何とか助けたいトラウトマン大佐も上官と軍の規律には逆らえない(何かしらやりようあったやろとは思う)。
自陣にたまたまやってきた侵入者を捕らえざるを得なかったベトナム軍(過去の因縁があるゆえ手荒な歓迎だった)に、ベトナム同志が捕らえた敵兵から情報を引き出すために尋問しているだけにすぎないソ連軍(この人たちも輪をかけてやばいやつらなのだ。おそロシア)。
ツッコミどころはあるものの、まあ完璧で矛盾のない人間なんてそうそういない。
誰もが自分の立場で、決められた役割を全うしている。
世界は無数のしょうがないであふれている。
甚だ理不尽だが、だいたいのことはしょうがないのだ。

…はたして、ほんとうにしょうがなかったのか。私も。
折しも、しょうがなく契約を打ち切られ、与えられていた役割からはじかれた。
私をはじいた会社と社会。
世の中をそうしてしまったコロナ禍。
こんなご時世だししょうがない、つらいのは私だけじゃないし、と自らに言い聞かせてはいたが。
ほんとうは、なんでやねんとキレ散らかしたかった。
私の闘いは、私の内なる怒りの中にあったのだ。
ランボー怒りの派遣切りである。
軍人も労働者も立場はそう変わらないのかもしれない。
彼に言わせればエクスペンダブル、すなわち“消耗品”…
…いや、ほんとうに、消耗品なのか?だからしょうがないのか?
真実はどうあれ、しょうがないをしょうがないままで済ませつづけていたら、やがて感情は腐り心が死ぬ。
心が死ぬと体も生きることをあきらめはじめるのだ。そして意志のない生ける屍となる。
ランボーは「そんなもん知るか」と建て前の作戦に背き、自らの正義をもって捕らわれの仲間たちとともにこの地獄から脱出することに決めた。生きるために。
束の間の相棒となったコーも言う。「私は生きていたいの」と。
生きるためには、ときに怒りが必要なのだ。
たとえ直接に闘わずとも、自らの感情を認め、受け入れ、赦し、そこからどうするか自分自身に問う。
そりゃあ私も生きていたいのである。
なにもかもしょうがないと死んだように過ごすのではなく、その日その日を納得して暮らしていきたいのだ。
怒りたくないとずっと言いつづけてきたけれど。それが立派な大人だと思ってきたけれど。
なんでやねんは、なんでやねんなのだ。
ほかならぬ私だけは、私を騙し偽ってはならなかったのだ。

仲間たちとともに基地に帰還したランボーは怒りをもってすべてを破壊した。
半裸で絶叫しながらマシンガンをぶっ放す彼のイメージはこのクライマックスからきていたと判明する。点と点がつながった。
でも彼は狂人でも戦いバカでも破壊魔でもないし、好き好んでキレ散らかしたわけではない。
彼自身の正義をもって正当に怒り、戦い、そして打ち勝ったのである。彼の気持ちが今ならわかる。
うーん、ひどいよね、みんな。
そらキレるわ。
これでよかったんか?
よかったんかな?
うーん…
ああ、でも、とりあえずスッキリした…。
スタッフロールが流れだしてようやく現実世界へと引き戻されたとき、なんだか私までえらいぐったりしていた。
そうなのだ。怒るとめちゃくちゃ疲れるのだ。怒ることをやめてからすっかり忘れていたが。
ランボーシリーズの結末は毎回虚無感が半端ないが、カタルシスはある。
なんのかんので腐って死にかけていた私がすんでのところで息を吹き返したのは、たまたま観た『怒りの脱出』にカタルシスを得たからである。
そんなんありか。あるんですよ。
生きてたらこういうことが、ごくまれに。
作品から強烈なメッセージを受けとるときは、自分自身の中にその作品の根本に流れる問題を抱えている場合が多い。
魂が自然に選んでいるのだろう。前へ進むヒントを得るために。

とかなんとか、感想文を装った自分の話など長々としてしまったが、映画をはじめ創作物はエンターテイメントたりえれば必ずしも高尚である必要はないと私は思っている。
作品から何を受けとるかはそのときの状況やメンタル次第で、自由なのだから。
『怒りの脱出』には忘れかけていた人生の教訓を思い出させてもらうとともに、純粋に楽しい時間をも過ごさせてもらった。
物語終盤のヘリチェイスはまさに本物のド迫力。
自らハインドを駆ってランボーらを執拗に追いつめるソ連将校がはちゃめちゃにいい悪役で最高だった。
今は軍用ヘリとかむやみやたらと飛ばせないんだろうなぁ。しかも追っかけっこと爆破を織りまぜながらとか。
そういう危なそうなのはもうCGで描いちゃうのかもしれない。いや、映画ぜんぜん詳しくないけれども。

三作目にあたる『怒りのアフガン』まで観た。アマゾンプライムで。字幕で。
4と5はどうしようかなぁ。これから観るかもしれない。
ちなみに記事のタイトルはアフガンにかかっているが深い意味はない。コロナもぜんぜんアフターじゃないしね。
たまにはこういうのもいいでしょう。