うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

無観客競馬さんから、がんばってたねと諭されましたので


ちょっと前に、ウマフリさんに寄稿しました。
私と、無観客競馬。というテーマトークでした。
いつも何とか書けそうなテーマでお誘いいただくの、ほんとうにありがたいです。
ものを書くかたは人の書くものと力量をよく見てくださっている…。

コロナ禍でいろいろありまして。
まず第一に、競馬場へ行けなくなったこと。
私事ながら、職場をかわることを余儀なくされもしました。
あと心身のバランスを崩したり。まあいろいろと、それなりに。
幸いにもすぐに次が見つかって食いつなぐことには成功したのですが、仕事はシフト制で土曜日が隔週になりました。
もちろん申請したら休めますが、流動的な馬の次走予定を完璧に読むのは至難の業で、これまで通り思ったようにリアルタイムで競馬を観るのは難しくなっていきそうです。
せっかく週休二日制の前の職場を選んだのに。ざんねん。

私は自由でした。
未知なる病原菌が世界をぐちゃぐちゃにするまでは。
どこへも行けるし何でもできる。無敵でした。
自分でがんばってそうしてるんだ、努力のうえに築いた自由なんだと本気で思っていました。
とことんまで不自由になってみてはじめて、自分がほしいままにしていた自由は、世界から赦されて与えられていたものだと思い知ったのです。
…でも、ちょっと待って。
できるからこそさらにもっと求め、行けるからこそ想いはなお募るんじゃないかと、この頃は感じるようになりました。
ちゃんと仕事へ行けていて、自由になる体とお金があれば、もう頭は先に競馬場へ行ってしまう。体はついていくだけ。
これはもう現地観戦民の条件反射なので仕方ありません。
私はだいぶがんばっていました。
がんばるのが気持ちよかった。誇らしくさえあった。
こんなにも愛のために力をふりしぼっているんだと思えていました。
ほんとにたのしかったんです。なにもかもが。
競馬が、競馬場が、好きな馬と人が、大好きでたまらない。
だから、もう行くしかない。絶対に行かなければ気が済まなくなっていた。ちょっと我が儘になっていたんですね。

今は誰もが行きたくても行けない状態です。
誰もが、そう、馬主さんでさえ不安や物足りなさを抱えながら、限られた環境でできることをせいいっぱい楽しんでいます。
はじめの一、二か月くらいは動けないことがめちゃくちゃしんどかったんですが、じっとしてるうちに、こういう愛し方ももともとあったのだとようやく気づきました。
誰もが現地へ行くわけじゃない。行けるわけじゃない。でも好きな気持ちはそれぞれ持っている。
私は何が何でも好きな馬や人に会いたいけれど、それがかなわない今も粛々と競馬はつづいている。奇跡のように。
私が行っても行かなくても。
たとえ世界がぐちゃぐちゃになっていても。
そこにいる、そこにある、つづいている。
「何が何でも!」から「むりならしゃーない!」に心のスイッチは切り替わっていました。

絶対に現地で観たいレースがいくつもありました。
でも絶対なんてものどこにもないことは競馬がいつも教えてくれます。
世界が平和なままだったらずっとバリバリ現地で写真を撮っていたかと問われれば、いつかどこかで息切れしていたようにも思えます。
愛が執着と化しそうになっていたから。
がんばらなければつなぎとめられないのは、執着です。
大好きで、こだわりすぎて、あまりにも必死になりすぎていたのです。
必死と書いて必ず死ぬ。いやぁ、死んじゃだめなんですよ。好きなんだから。楽しいんだから。
だからもうちょっとだけ、楽に考えましょ。

完璧を求めるんじゃなく、できないなりにできることを受け入れて楽しむ。時には前向きに諦める。そんな自分を赦してあげる。できれば他人のことも。世界のことも。
競馬と同じで人生いいときばかりじゃない。
燃えてた私のほうが、たぶん面白かった。
でもそのときの必死の言動が、知らず知らずのうちにどこかの誰かを傷つけ追いつめていたかもしれない。
凪いでる今の私は落ち込むときもあって、さして面白くもない。
でもどこかの誰かの気持ちが、ちょっとはわかるようになった。
どっちが好きかと問われれば、私自身はだんぜん後者かな。
なので無観客競馬さんには、がんばってたねと肩を叩いてもらったのかもなぁと、今は思うようにしています。