うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

「なんとなく好き」を心に抱く

阪神タイガースの虎戦士たちが好きだ。
家が大阪でサンテレビが常時放送されてて、家族が阪神ファン。自然のなりゆきでこうなった。
わたしは阪神ファンだ。
でもプロ野球選手にいわゆる推しはいない。みんな好きだ。他球団の選手たちも。
球場へは子どものとき親に連れられて一度行ったきり。
ずっと野球とは無縁の人生を送っていたのだけど、だいぶ大人になってから、たしか和田豊監督のラストイヤーくらいからかな?
家族に教えてもらいながらちょっとずつごはんどきにナイターを観るようになって、現地へ行きたいなぁと思っているうちにあれよあれよという間にコロナ禍に突入してしまった。
プラチナチケットはもはや手の届かぬ遠いあこがれ。
「行きたいけど、行けないなら行けないで、それもいいのかな」くらいの熱量で今は楽しんでいる。

知らなかったものを知って好きになる。
価値観や人生観が大きく変わる貴重な体験を、競馬と野球で二度した。
わたしはスポーツが好きだ。人間が好きだ。
スポーツの、信念もつ人間の力は偉大だ。
わたしの想いは、テレビ越しに顔をつきあわせている選手たちへの愛着だ。
勝ち負けよりも、彼らがどんな気持ちでプレーしているかを見て感じたい。
わたしはスポーツが好きだけど、もともと勝敗や成績にそれほど執着はない。
そら阪神優勝したら最高やけど。たぶん泣くやろうけど。
エラーしたって、見逃し三振したって、なすすべもなくボコボコに打たれたて炎上したって、怒ったり失望したりすることはほぼない。
その場では「あ~あ」って思うし愚痴もちょっとは言うけれど、きょうはきょう、あしたはあした。
わたしにとってスポーツは人間そのもの。
人がいて、チームがある。それがすべて。
結果がともなってくれたら最高。でも結果だけがすべてじゃない。
想いが報われるかたちは必ずしも勝利だけではないのだ。

なにぶん、こういうあっさりざっくりしたファンである。
ガチの人に言わせればぜんぜんファンではないのかもしれない。
熱意や姿勢の問題?
推しがいなければ、
前へのめり込むような熱い気持ちがなければ、
時間も労力を惜しまぬ行動力がともなわなければ、
すべてを捧げなければ、誰か何かのファンとはいえない?
それはちょっと違うな、と思う。
わたしのガチで本ちゃんの趣味は競馬だが、そっちとはまた違うかかわりかたを野球とはできている。

ファンって必ずしも現地で声を涸らしたり、夜も眠れぬほど想いを馳せる人のことを指すのではない。
そうすることが美徳とされる風潮はたしかにあるけれど。
競馬ひとすじだったときはガチでなければと気負い、ガチであることがちょっと誇らしい時期も、実はあった。
でも必ずしも「好きにガチ」である必要はないのだと、ゆるく野球を楽しむ自分をありのまま認めることにした。
「なんとなく好き」の市民権はもっともっと認められるべきだから。
誰かに己を示すために何かを好いているわけじゃないし、ファンたる資格を求めて応援するわけでもない。
特別な知識や語る言葉は持っていないけれど、ただ見ているだけで嬉しくて楽しくて、ただあるだけで心に張り合いを与えてくれる。
そういうものを心に抱いていられるのは幸せだ。