うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

いまの競馬と生きていく

アーモンドアイもコントレイルもデアリングタクトも他のすべての馬たちも、出てくれてありがとう。
これに尽きる。
競馬があまりに複雑で難しくなりすぎて、夢の対決が実現しづらい昨今だからこそ、今年のジャパンカップには特別な意味があった。

戦場を選ぶ権利も、鞍上を選ぶ戦略も当然あると思うし、何が正しいとか間違っているという話でもない。
実際に戦うのは現場の馬と人で、何が最善か、勝つために何をするか、レースへ向かうために何ができるかは陣営によって違う。
リスクを極力排するのか、それとも果敢に挑戦するのか。
結果度外視の大博打から一大ビジネスへと様変わりしていった現代の競馬の完成形のひとつが、いまは繰り広げられている。
しかし、いつだって走るのは馬だ。
馬は人に応えて、ただひたむきに走るだけ。

古き良き競馬は、佐藤哲三騎手にちょっとかじらせてもらった。
アーネストリーエスポワールシチーとプロヴィナージュはわたしにとって最初の先生だ。
ジョッキーがいちから馬を作ること。
陣営と心ひとつにして目標へ向かうこと。
馬と人、人と人とが時間をかけて、対話を重ねて信頼関係を築いていくこと。
そんな競馬を何年も見られて幸せだったと思う。
でもその幸せにかまけて、かれらには夢や浪漫という甘く都合のいい言葉をたてに無責任な願いを抱いてしまったあやまちが、わたしにはある。

ファンってなんだろう。
応援するってなんだろう。
夢とは、浪漫とは。
競馬とは、馬が走るとは、いったいどういうことなんだろう。
答えはすでにあるようで、まだ出ていない。
きっと一生かけて考えていくことなんだろう。

やがて敬愛するジョッキーが鞭を置き、好きな馬たちも順にターフを去り、わたしが好きで見ていた競馬は少しずつ、ほんとうにゆっくりとかたちが変わっていったように思う。
情熱は落ち着き、少し距離ができ、こういうものだと、どこか何かあきらめのような感情がつきまとうようになった。
それでも離れられなかった。
いつだって、いまの競馬と生きてきたのだ。
それぞれ背負うものも想いも、そのかたちも違う。
好きも好みも。
どんな馬とどう出会って時間を重ねていくのか。ファンの数だけ馬との時間はある。
かれらが走ってわたしたちに夢や希望を与えてくれるように、かれらをまっすぐにねぎらい賞賛できるファンでありたい。
声援が、勇気を与えるとまではいかなくとも。