うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

誰かに嫌われても、自分でいたい

きっかけは些細なことだったと思う。
いろんなことがいっぱい重なって、もういいやってなってツイッターを半月くらい休んだ。
休んだってへんなの。仕事じゃあるまいし。
でも仕事みたいに、義務のようにタイムラインに顔を出して、わたしはわたしを演じつづけていた。

今のわたしは前ほど情熱的に趣味と関われていない。
コロナ禍で機会を奪われたとか、仕事が忙しくなったとか、理由らしい理由はあるんだけど、長年向き合いつづけてきた慣れみたいな気持ちもあるんだろう。
なくてはならないものだけど、好きだけど、もう熱く燃えさかる時期は通り過ぎたんだと思う。
ひとは変わるのだ。気持ちも関わり方も、節目節目で変わるのだ。
だから飽きたとかどうでもよくなったとかそういう話でもなくて、今も低温でゆるゆると熱をもちつづけている。
ツイッターでのわたしはいつも燃えさかっていたから、そのときご縁のあった人たちから嫌われたり、飽きられたり、幻滅されたりするのが怖かった。
この人たちをがっかりさせたくない、と思うくらいには好きで、ゆるくつながりつづけてきた人たちだ。

フォロワーさんというのは同志ではあるけど、リアルに直結する友達や家族や同僚ではない。
わかっているはずだったのに、わたしはこの人たちに赦してもらおうとしていた。己の存在価値を問うていた。
オンラインでの関係が、オフラインでのわたしを侵食しつつあった。病んでいたと思う。
いったん電源を切って、重たくなったものをそぎ落としてみて、半月のあいだ考えた。
もう、こういうのはやめるのだ。
これは不健全な依存だ。そんなこと誰も望んでない。
依存から対等な関係は生まれない。

元気がなくなった、競馬の話をあんまりしなくなったわたしとどこかのあなたの縁がここで切れるとしたら、今はもうそういうことなのだ。
人は喧嘩や絶交じゃなくて、なんとなくの積み重ねでなんとなく別れていく。
それはやっぱり怖いことではあるけれど、恐れることでもないのだと思う。なるようになっていくだけだ。
だから大丈夫。
見たいときに見て、読みたいときに読んで、話したいときに話して、書きたいときに書いていく。