うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

書かなくてもいいし、形にしなくてもいい

言葉を尽くしてきたけれど、ファンが伝えられる言葉って「好きです、応援してます」しかない。
心があればそれだけでいい。
ただ好きでいられればいい。そっと寄り添えればいい。
自身が抱く信念や活動の意味と意義を一番わかっているのはご本人や当事者なのだから。
外からのプレゼンだったり、わたし見てます知ってます好きなんです見てくださいと声をあげるのは、本当は余計だったのかもしれない。
わたしは関係者でも広報でもクリエイターでもないのだから。
はじめから何も言えなくてあたりまえだった。

ツイッターという居心地のいいざわざわした場所からいったん抜け出てみて、ひとりでいるうちに、ずっと向き合ってきたモヤモヤがゆっくりと晴れてきた。
そうすると、今まで自分がやってきたことがなんとなく野暮で恥ずかしいことだったのかもとさえ思えてきて、いよいよ形にする言葉をなくしてしまった。
別にいつも何かを言わなくてもいいんだ、というはじめての安堵を覚えながら、しばし気持ちをかたちに言葉をつくることから離れてみた。
日々ものすごいスピードと物量で流れてくる感情のかたちをぼんやりと眺めながら。
もうここでこんなふうに声を張りあげて何かを言うのはわたしには無理でしょう、と思いながら。
ツイッターのタイムラインは川のようだ。清濁あわせのんで渦巻いている。
それが心地いいときもあったけれど、今は重たくて苦しいときのほうが多い。潮時なんだろう。

じゃあなんでわざわざ言葉にしてきたのか。
想いをつぶやき、文章を書き、写真を撮ってきたのか。
誰のためなのか。何のためなのか。
自分のためだった。
わたしが会いたい人と出会うためだったんだな、と今は思う。
同じものをみている誰かと出会って、気持ちを分かち合うために、好きを形にしてきた。声をあげてきた。
それは外へ向けたアピールでもあった。
野暮で恥ずかしいと感じたのは、自分のためが誰かのためにもなるのかも、と思っていたから。思いたかったから。
自分の好きを、自分の想いを、自分自身を、人に認めて欲しい気持ちがあったから。
自分、自分、自分。恥ずかしい。
この記事だって誰かに訊いてほしくて書いている。
人はわかってほしい生き物で、誰かとつながりたくて、誰しも承認欲求を腹の中に飼っている。
そんな気持ちを高尚っぽい何かに言いかえて、わたしはいいひとになろうとしていた。もう何回も言ってきたことだけど。
今は恥じているし、受け入れてもいる。
だから黒歴史にはしない。ずっとしたくてしてきたことだから。形にし、書いてきたことに偽りはなかったから。

人とは出会えた。
ずっと好きで書いてきたからだ。
これから何をしていこう。
好きなものは変わらず心の中にある。好きな人もいる。
なら好きなものを好いていくだけ。大事な人を大事にするだけ。
いいひとにならなくてもいいし、書かなくてもいいし、形にしなくてもいい。
したいときにしたいことをする。
書きたければ書いて、つぶやきたければつぶやいて、話したければ話す。
写真を撮れるのはまだもう少し先になりそうだけど。

何もせずに、何かをする。
あたりまえの幸せを、ようやく思い出した。