うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

ただ好きなだけでいい

好きを仕事にできるひとは、いったいどれくらいいるだろう。
競馬と出会ったとき、わたしは競馬学校に入学できる歳を過ぎていた。
それで趣味にとどめたわけだけど、結局のところ覚悟ができなかっただけ。
本当にやろうと思えばどこでも、どんなかたちでも飛び込めただろう。
人生を変える勇気が持てなかっただけ。
好きな競馬を人生にできなかった。
ずいぶんと長いあいだそれが負い目でもあった。

勤め人をして暮らしていくかたわら、好きな人馬を応援する。
こんな人生、いいとこ取りのつまみ食いじゃないのかと自分を責めたりもした。
その程度の情熱でどの口が愛を語るのかと。
生き方を変えられなかった人間が、命がけで生きてる馬と人にいくばくかの何かをかける。
これはなんなんだろう、それはどうなんだろう、わたしはなんなんだろう、と。

好きならばすべてを知って、行動を起こして、ぜんぶひっくるめて愛すべきだと思い込んでいた。
何でも知りたいし分かりたいしできることすべてしたい、と思っていた。
可能なかぎり同じ立場で物事を考え感じて、喜びも悲しみも苦しみも想像し、理解し、わかちあう努力をすべきだと。
わたしの愛は重たかった。
重たい愛は不自然で、自分も他者も重たくする。
おそらく、わたしの好きなひとたちは「そこまでせんでええ」と思ってくれるだろう。
そういうひとたちだから好きなのだ。

すべてを知らなくてもいいし、必要以上にかかわらなくてもいい。
義務にしなくてもいいし、使命感に燃えなくてもいい。
自分の居場所でしたいこと、できることをする。
なぜならわたしは柵の向こうの人馬と同じ立場には絶対になれない。なろうともなれるとも思わない。
お互いの立場で自分の道をいくだけだ。
道は交わらない。柵に隔てられた平行線がつづくだけ。
そうして、遠くからまぶしく眺めるのだ。
見えていることにしか触れられないし、理解と想像には限界がある。だから思いやる。相手と自分を。
ファンとは他者で傍観者だ。そして応援者だ。ただ好きなだけでいいのだ。きっと。

だから、愛のかたちをちょっとずつ変えているところ。
重たくなってつぶれたり、自分や誰かをつぶしたりしないように。