うまいこといえない。

うまいこといえない人がつたないなりに誰かになにかを伝えるための場所。

趣味が趣味じゃなくなる日

その日はわりとあっさり来るのかもしれないなと思った。
もしかしたら、いつかの未来にはあるのかもしれないなと。
事実、まだ今は選ばなかっただけで、そうなりかけていた。

競馬と出会ってから十数年。
競馬そのものも、わたし自身もおそらく変わった。
ひともコンテンツも歳をとるのだ。
競馬というコンテンツがわたしの求め好む理想から少しずつ離れていき、価値観が合わなくなってきたところは正直ある。
だめになったとかつまらなくなったというのでは決してなく、お互いに違う方向へ変わっていっただけ。
だからといって嫌になったり、嫌いになったというわけではまったくないのだ。
愛するものへの想いは変わらずある。
好きな人馬への敬愛の念だ。
愛する馬たちが競走馬生活を、尊敬する人たちがホースマン人生を完走するのをこの目で見届けたい。その一念だけは変わらずある。
ただ、もう毎週の重賞の勝ち馬をそらんじることすらあやしいし、いつもいつも予想をして馬券を買う生活からも離れている。
あれほど、なるまいと思っていた“なにもしないファン”になりつつある。

ところで、わたしはカフェやコスメが好きだ。
おいしいものを食べるのが好きだ。
外を出歩いたり、乗り物に乗ったり、旅をするのが好きだ。
趣味といえるほどではないが、暮らしを彩るものたちを愛している。
だから、ていねいにコーヒーを淹れて好きなお菓子を食べ、週末にはショッピングをして、ときどきは旅行をしたりして、おだやかに暮らしていく。
たったそれだけの、なにげない生活もありなのかなと思う。思えるようになってきた。
べつに無趣味がいけないのでもつまらないのでもないのだし。
必ずしもいつも何かに熱中して取り組まねばならない決まりもないし、そうしていないと趣味とは呼べないなんて、誰が決めたわけでもないのだから。

そもそも趣味を深く嗜まねばならないというのはどういう思い込みなんだろう。
いまやSNSで“好き”に費やす言動を可視化されるがゆえの、つながっている人たちに対する後ろめたさだろうか。
もしも「じゃあ休むわ」ということになって同志を失ったりがっかりさせるのが怖い、という気持ちはたしかにある。
でもそれはそうなればそのときはもうそれまでかな、とは最近思えてきた。
そもそも、趣味って言葉があんまりよくないのかもしれない。
趣味ってべつに決めて取り組むものでも、極めるものでも、抜けられないサークルでもないのだから。
行動しなくても想いがあれば愛だろうし、反対に行動から生まれる愛もある。
わたしにとって競馬は熱心に取り組む趣味ではなくなりかかってはいたが、敬愛するものたちへの普遍的な愛はいつも変わらずある。
だから今週末、ひさしぶりに競馬場へ行く。
会いたい馬と人に会いに行く。
会いたいし行きたいから行く。

心を熱くするものには、ある日突然出会うものだ。
そうして燃えあがった熱はいつか冷めていく。
どんなかたちであれ。
そこに善悪はない。
気持ちや想いという形なきものも、いずれ変化していくのだ。
どうかそのときは、そんな自分や他者を受け入れ赦してあげてほしい。